トランスマーチにいったよ

トランスマーチにいってきたよ〜

私は近ごろのトランス差別的な言論の高まりに怒っていたし、周りにもそもそも無関心な人が多いなあと思っていたので、反差別の文脈で参加した。デモで中に入って歩くのは初めてだったので、人を誘っていったけど、同じ大学の人たちやそのつながりのひとがたくさんいてワーよかったとなる。マーチ始まる前のブースで仕事で関わったことのあるひと(メールだけ)とお話できて、あ、私のやってたことって社会とほんとうにつながってたんだな、と思う。あのときはフルリモートで、家から一歩も出ずに、顔も声も見聞きすることができない相手からお金をもらって仕事して、何をしてるかわからなくなることも多かったから。

マーチに出て思ったこと。

デモを応援したいときに沿道で何をしたら良さそうかがわかった。沿道から写真を取られるのは私はあまりうれしくなかった。もしここにいることがうっかりわかってしまったら不都合に感じる人がいるんじゃないかと考えてしまうから。だから基本は手を振ったりというのがいいんじゃないかな。まあ今回はマーチだからというのもあるかもだけど。もう少し堅めのデモだったらどうしたらよいのだろう。人が沿道から応援してくれてるのをみると、連帯をじんわり感じた。

同時にシュプレヒコールはすごく違和感を感じる行為だった。少なくとも私には言えないことがあった。反対表明としての沈黙ではないのだが、どうしても口から出てこないことがあって。それはそもそももっとこういう話だよね、というものもあったり、自分が知識不足でスタンスを明確に持てていないものであったり、あとは単純に言葉遣いの問題であったりした。「わたしたち」という言葉にはものすごく警戒してしまって口に出せなかった。それでも勝手に口から出そうになるときがあって怖かった。自発的に発した言葉であってほしいのに。少なくともコールが始まる前に何を言うことになるかは確認しておくべきだったし(その手段があったかどうかは不明)、知らせておくべきとも思った。少なくとも発声するということは立場の表明もしくは代弁であり、何を代弁してるのかをよく知らずにすることはできない。もちろんその時の認識が間違っていてもいいからサポートの気持ちを表明しろよ、と思う人もいるだろうが、私にとってそれはむずかしい。

でも土曜日の新宿の街の中でデモの列は明らかに異物で、それを堂々と立ってやるというだけで良かった。特にバスタの前で反差別を表明して立てたのは印象深い。差別の記憶が色々染み付いてるエリアだと思うから新宿は。あらゆる差別に不安や危険を感じている人が安心してくれたらいいなと思って歩いていた。

 

2022/10/13

朝のルーティンが決まってきていい感じ。まず起きてお湯を沸かして洗面類をする。お湯はお茶漬けとコーヒーの分多めに。お茶漬けの米を温めておいてる間にコーヒーの豆を測って挽いておく。そうするとお湯が湧くのでお茶漬けにかけて冷ましておく。コーヒーを3分くらいで淹れる。コーヒーちょっと飲んだらお茶漬けが冷めて米が出汁をちょっと吸ってくるのでたべる。

でもこのルーティンは今のこの気温だから成り立つ気もする。もっと寒くなったら身動きが取れなくなっちゃう。

久々に高山なおみさんの本を読んでる。やっぱりいいなあ。ご飯で一日が締まってる感じもいい。仕事してるときにちょっとセクシーな気分を感じてるのもかっこいい。日々ごはんを何冊まで読んだかわかんなくなっちゃったので比較的最近の日記を借りたら娘がすごいおとなになっててびっくりした。なんなら今は20年後とかだから、実は自分の親と変わらないくらいの世代だったんだろうか。日々ごはんでは私よりちょっとお姉さんくらいだったのにな。20年前の日記だけどいきいきした文章だから、それを読んでいる今の私の生活が影響される。時空の旅。

何も確認せずに手にとったら2011年の日記で、非日常の中で生きていく日常とか、またカタストロフの話だなって思って読んでいる。通勤のときのためにエッセイ本を買うようにしたんだけど、今読んでるのは戦争中のベオグラードの日記。震災の2・3週間後くらいにお店に行ったらWe are the worldが流れていた、というエピソードを見てひさびさに聴いてみたけど、weって誰だよって。もう全く響かない詩だな。歌はいいと思うし、一緒に歌うとなんかいい気分になるんだけど、いい気分になっちゃだめだよなって思って。

修論についての所感(なぐりがき)

修論について色々振り返る。前に書いた卒論の振り返り見て色々変わったことと変わらないことがあっておもしろ〜となる。結局分量としてはもう一回英語で卒論を書いてみた、みたいな感じになったので、修論と呼ぶにはチャレンジングではなかったのだけど、同じようなプロセスを違う環境・内容でやり直すのはまた発見があって振り返ってみると興味深い。

シンプルに英語で書くということで助けになったものたち。

わたしはDeepLは使わないというのを信条にしていたので読むときは基本speechify(読み上げアプリ)で聞きながらiPadでラインを引いていく。読み終わったら書き込みを含めてPDF化してPCに送って、まとめ作業をやる。Citationはツールを使うべきだったんだろうけど、どうもしっくりくるアプリに出会えなくて最終的に全部自分の目でチェックする羽目になった。

インタビューの文字起こしは、英語はotter.aiでかなりきれいに取れます。日本語ツールは最初nottaを使っていたけど、結局LINE clovaが一番正確だった。ただβ版で課金できず、編集機能が色々未開発なので、文字起こしはテキストをダウンロードして岸さんのinterview writerで(操作慣れてるし)。LINE clovaはデータ提供すればデータ量が上がるんだけどそれは研究倫理的にはグレーだと思うので気をつけて。直接スマホアプリのLINE clova上で録音すればデータ上限なかったはず。

文章書くのは、Academic Phrasebankがかなり参考になった。あとは大学からESLの学生用のdissertation writing guideが細かく出ていたのでそれを読みながら書いていた。

https://www.phrasebank.manchester.ac.uk/

その他英語についてはもう指導教官に頼り切りで...フィードバックのときに英語の表現も全部見てくれた。本人も英語が母語ではないのでかつて苦労したのだろうか。感謝。

 

もともとは都市と文化にからめて何かを書こうと思っていたのだが、ダンサーへインタビューをするという論文になった。結果自分の関心のあるところに真正面から取り組んだことになってよかった。もともと文化産業論ってところも、なんで役者やダンサーとして生きていくのがこんなに苦しく難しいのかということで。その苦しさは経済的なものだけでは語れない、ジェンダーとか身体のことも含んでいたから、大きな産業の仕組みとか都市のこととかやってもそこには触れられないなあと思っていた。

そこでprecarityという研究領域に出会ってしっくり来た。precarityは学問領域と労働運動両者の側面を持っているので、基本的にはtemporary workerやfreelancerの仕事・生活の不安定さについて広く扱っている分野。ただprecariousnessというちょっと別の概念だと人類が共通して持っている生の不安定さ、みたいな話にもなり、ある身体を持つこと・見せることを扱うのにもかなり向いている概念だと思った。意外にもダンサーの身体とその不安定さを絡めて論じている研究はすごく少ない。precarityはヨーロッパ中心の研究分野というのもあってその域を出ていない。ダンサーの身体ってすごいいろんな意味でこんがらがっていて、本人の認識もかなりこんがらがっているので、面白いと思うんだけど。日本語でこれについて書くのすごい難しい。

今回もインタビュー、かなり迷いながらやっていて、失敗したなと思うこともあった。あまり時間がなくて、アポとったら2日後できます?みたいな感じでぬるっと始まってしまったので。informantとの距離の置き方とか、踏み込み方とか、話の脱線とか。難しかった。印象的だったのがあるinformantがすごく研究に興味を持ってくれていて、何が原動力なんですか?なんで私の話をこんな聞いてくれるんですか?みたいな質問をされた。(その時もう正式なインタビューは終わってて、雑談してた。)そのとき素直に出てきたのは自分に興味があるからですかね。ってことだった。

私は人に別に興味があるわけじゃないんだよね。こんなことインフォーマントに言うなよって感じだったんだけど、その人はすごい面白がってくれて。私も、いや興味がないわけじゃないんですけど。でもその人を助けたいとかそういうことではなくて。自分の知りたさとかケリを付けるとかそういうことのためにやってるんですよね多分。なんで自分はこうなのか。自分はこうなのにあの人はこうなのかっていうのを少しでもわかりたいんですよね。感情的に同情しているというよりはエンパシーというか。別にその人が苦しいとか大変だったという話を聞いても心に何かが到達することはないんだよね。それはインタビューだろうが日常生活だろうが同じで、それは起こってしまったことで、それは自分に起こったことではないから。

これを言ったわけではないけど。流石にその日初めて会ったinformantにこんなこと全部言えないから。でも今思うとこんな気持ち。

モド・ウゴ・キリ

昨日ひさびさに稽古場に戻った。稽古場と呼べるほど長くは通っていないが。知ってる人がいっぱいいておかえり〜って言ってくれた。昨年のあの不気味な雰囲気はなんだったのか。その時一緒にはじめた人たちはもう誰も残っていなかった。

稽古のシークエンスも少しずつ変わっていて、動きのイメージが新鮮に感じられた。手が溶けていく感覚とか初めて感じてオーとなった。去年はそのイメージと言語のずれですごい苦しかったけど、一旦それを手放して素直に動けたのでなんだか楽だった。イメージを使って踊るというのはロンドンではあまりやっている人がいなかったかもとかちょっと思う。理論を詳しく読んだわけではないのでわからないけど。結構メカニックな身体を信じている人は多いなあと思った。無意識の中の動きみたいな。それって結局実践しようとすると心身二元論に陥ってしまいがちな気がするのだけど。稽古場ではテクニックについては距離をおいて語られるので、それはありがたかった。

陶酔状態に入ること、それを人に見られることがあまりこわくなくなっていた。公園で即興やるのに慣れたからそれに比べればって感じなのかもしれない。Mayfairの路上でも踊ったしね。客観的に見たらみんな自分に陶酔しててちょっと怖い感じもあるくらいだったから。振付があれば完璧に陶酔しきることもないし、陶酔側に踏み込むことに抵抗が減ってきてるのはすごくいいこと。

髪を切ってちょっと野性的になったんじゃないと言われる。そのときはふ〜んと思っていたけどなるほどしっくりくる。1年間地続きだった生活を手放して周縁の中で生きていたことが何かを変えただけかもしれないけど、東京の街に降り立ってすぐに髪を切ったことでもうもとの自分には戻らないという宣言したような感じ。髪を括った自分を見るのが最近かなり嫌だった。縛っていた毛束を誰かに掴まれてるみたい。髪を切って従順な女みたいに見られている自分を全部捨ててきた感じがある。まだ新しい社会に順応中だからっていうのもあると思うけど、髪がこの気持ちを思い出させてくれそうで。

07/07/2022

七夕ってことをTwitterで知った。来週頭にはFeedback貰いたくて慌ててdraftを指導教官に送る。まだ必要そうな文献を読みきれてないんだけどとにかく書き始めないとやばいので読みつつ書いては送っている。Precarityの議論、まだbutlerのprecariousnessの部分が理解しきれていなく、でもmigrant workerの生きづらさみたいな部分と関連していると思うし、movementとしてのprecarityとも関連していると思うので、ちゃんと詰め切りたい。お昼は友人と通話してパリの計画を立てる。やっと行けるのね。お互いのマップを共有しあったらほとんど食べ物だったので最高のbuddyだねってなった。夜はバイト。大量のtakeaway、団体客とクソ客、VIPの来訪がすべて重なって激忙しい。社長のねぎらいでみんなドリンクをおごってもらった。耐えきれず帰りにマック買って帰った。

08/07/2022

朝、LINEの通知がいつもに比べて多いのではて?と思ってみてみると、銃撃事件についての家族からのLINEだった。「日本でこんなことがおきるなんて」と書いていて浅沼稲次郎の暗殺や最近の銃乱射事件について考えた。色々見て考えれば考えるほど頭から血の気が引くような気持ちになって家を飛び出した。少しバスに乗ってジェラートを食べてクールダウンした。カフェで作業して帰宅。Twitter見てたら今日の夜中3時に、昨日ちょうど行ったマックの前あたりで人が刺されていたことを知った。帰りバスで通ったけれど何も気が付かなかったし、特に寮のWhatsappとかでも話題になっていなかった。また衝撃的な写真を見てしまい、なんだこれ?って気持ちになった。

I'm a dancer, privately

最近これからどうやって踊っていこうかなというのをずっと考えている。

3月に新しいダンスのコミュニティを見つけ、今までで一番心地よく踊りに関われている。Lauraというアーティストが中心になり、Lewishamあたりで活動しているグループがある。毎週水曜日の朝にはコミュニティセンターのスタジオを借りて、個々がそれぞれ好きに踊ったり、動きを探求したりする場を開いている。それから隔週で、公園に集まって各自ヘッドフォンをつけ、audio guideということばと音楽の入った音源を聞きながら踊るイベントがある。Contact Improvisationのコミュニティよりもさらにテクニックや既存のダンスに関する規範的なものから遠いところにある感じがして心地よく感じている。

それでも踊りを探求してるとテクニック欲しいな〜って思う場面がある。特に私はフロアワークが大の苦手なので、もう少ししっかり探求したい。それに、人に見せる踊りをするというのは特別なことで、こわいことだけど、見られることで生まれるものもあると思う。でも、見せること、という気概でやってしまうと、身体が固くなって心が閉じてしまう。

先週には地域コミュニティの人に対してワークショップをひらくというのでお手伝いをしてきた。その中で出会った人が、"I'm a dancer, but privately"と言っていて、それはすごく豊かなことだなと感じた。Publicじゃないとdancerではないみたいな気持ちがずっとあったけれど、別にprivateにダンサーであってもいい。自分だけのための踊りや、家族や友人、恋人との踊り、近所の公園と犬たちとの踊りでもいいのかもしれない。そういう場所が日本につくれるのかな。

そもそも前提としてwell-beingのために踊っていたいし、well-beingを妨げるような踊りはしたくない。踊りというのはつながることだけど、繋がりたくないものとはつながらないという選択肢も取ってもいいのかもしれない。でもわたしの場合、自分を開くことが相当苦手なので、そこからはじめていくべきだし、少しは勇気をもって踏み出そうと思って開こうとしている。でも日本でそれをやってみたら嫌なものと結構つながってしまった気がして、ああ、場所が悪かったんだなと思った。そう思うと、もう少しここにいたいなあという気もしてくる。

リスクがあるリスクがあるリスク

イギリスに来てから生理をなくしてみています。お正月を最後にもう4ヶ月。

というか、なくすというのが選択肢にあるとは思ってなかった。

私はcombined pillという、いわゆる普通のピル(エストロゲンプロゲステロンが混合されているのでcombined)を、休薬なしで飲んでいる。この休薬無しで飲むやり方はcontinuous use? と言うらしく、オンラインの医者が言うには特にリスクはないらしい。副作用としては、不正出血の可能性があると言われているがまだ経験してない。

日本の婦人科のサイトを見ると、だいたいだめって書いてある。ピルの研究結果は割と国によって違うようで、リスクの捉え方も異なっている。そこに各人の思想が絡んでいるから、どう意思決定するかはなかなか難しい。

最近悩ましいのが、ピルと乳がんリスクの関連性である。日本の婦人科にかかったときは、乳がんリスクの上昇はかなり小さい相関で、検査をしっかりすれば大丈夫、みたいな説明をされた記憶がある。ただ、イギリスで処方されるときはかなり仰々しく乳がんリスクについての説明があり、「リスクを受け入れます」とチェックをしなくてはいけない。これが毎回結構消耗する。

私は母が若年性乳がんだったので、遺伝性がんのリスクが高い可能性がある(リスクのリスクってなんだ???)。家族性がんの遺伝子を持つひとはピルをやめたほうがいいというのはわりとどこでも一致している話みたいだ。このリスクのリスクを想定した上でピルをやめて、出血する身体と生理痛とPMSをこの後の人生で受け入れ続けるのか。もしくは10万とか払って遺伝子検査をして、安心する、ないしは遺伝子があることを知って更に乳腺切除とかするのか。

そんなんでリスクが無いってわかってもがんになるかもしれないのにね。でもなったときにあの時ピルやめてたらな...って思うんだろうか。ほんとはミニピルにしてエストロゲンを取らないようにしたほうがいいんだろうけど、でもミニピルと乳がんの相関がないのは単に研究が進んでないだけで、本当はあるかもしれない。ミレーナも相関あるらしい。

一度生理がない身体を数ヶ月やってしまうと、結構後戻りできない感覚がある。自分の女性としての身体を認識しなくなってらくちーんというか。まあ普通に体調もよいし。(過食を生理のせいにすることはできなくなったが)この身体になると、今までフェムテックとかのプロダクト色々試して楽!!って思ってたけど、そもそも生理を減らす/なくす選択肢があるってことを教えてほしかったよ、って思ってしまう。

今学期身体論をやっているので色々自分の身体の認識について振り返ったりする。がんの話に戻るが、もし家族性がんのリスクがあると診断された場合、乳腺切除をやるだろうか。胸がなくなったら結構清々しいんじゃない、って思う反面、やっぱり20年以上付き合ってきた身体だから、なんかその一部がなくなったらウーってなるんだろうか。そんなに大きくないので、服装によってまったくないみたいにすることもできるし、あるみたいにすることができるのを結構気に入っているかもしれないし。

こうやって色々可能性の可能性みたいなことをずっと考えていても、ほっておいたら私の身体は毎月出血してしまうし、その生きづらさはその膨大な可能性の枝分かれよりもケアされるべきものなのかな、って今は結論づけている。