葬儀・人魚・NDA

最後に葬式に行ったのはいつだろう。大学の時に一度だけ行った気がする、とここまで書いて、祖父の葬式がコロナ禍真っ最中にあったことを思い出した。ちょうどワクチンが始まった頃の話で、祖母だけ2回の接種が完了していたから、小規模に家族葬だけ執り行ったのだった。最初の文章で、「だれかの葬式」と書いたところで、参列できる葬式はぜったい誰かの葬式だよなっておもってそのまま「葬式」とだけしておいた。自分の葬式に誰が来るのだろう、と考えることがたまにある。結婚式の招待状は自分で送れても、葬式の案内は自分で送ることができないので、来てほしいと思う人が来られなかったり、逆に来てほしくない人が来て、なぜかめちゃくちゃ号泣していたりしたら最悪だなとか想像する。身内として参加する葬式は別に家族サイドだから良いのだけど、そうではないとき、どういう気持ちで参列したら良いかわからないことが多い。友達のお母さんや、小さい頃お世話になった養成所のスタッフさんの葬式とか。当時そのスタッフさんにお世話になったひとたちはみんな大人になっていて、子供が3人いる子もいて、葬式のあと適当な店で喪服を着たままみんなでお酒を飲んでるとき「赤ちゃん産む時ってあそこ切られるんだよ!」ってその子が言って、みんなが悲鳴まじりに驚いていた瞬間を覚えている。

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セックスを「泳ぎ」に例えるのって割とよくある表現だと思うのだけど(布団で泳いでとか)、泳げない人なので、なぜその2つの行為が結びつくのが直感的には理解できない。ジタバタしているから?とか色々思うのだけど、直感的にわからないからこそすごく幻想的に捉えてしまって、人魚が海にもどって泳ぐその飛び込みの瞬間みたいな、精神と肉体の悦びが交わる瞬間みたいな感じなのかなと無駄な想像をひろげてしまう。

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人生でまだ一度もだれにも言ったことがないことってあるかなって思ったけど、意外とすぐにはでてこなかった。些細なことの方が、どうでもよすぎて実は誰にも言ったことがないのかもしれない。秘密を共有することで相手を束縛したい欲求を埋めたい気持ちになったのだけど、じつは人間関係ってそもそもその人としかしていない、些細だけどユニークな経験の積み重ねで厚くなっていくものだから、一定の深い関係を築いている人とは、すでに誰にも言ったことのないことを一緒に共有しているようなものだから、それならいいか、と落ち着いた。いつか、全くの赤の他人の秘密を、NDAを結んで意味もなく背負ってみたいかもしれない。