ぱろぱろ通信

生活断片

終わりの年/ダンスとエスノグラフィ

・2025年の振り返りをしてみようと思ったが年末旅行していたので年が明けてしまった。年末に旅行をすると正月の年越しの意味がなくなって、◯泊◯日のうちのn日目でしかなくなるのが良い。

 

・1日は伊勢神宮に行っていた。終夜運転の特急列車に乗って向かい、信心深いひとたちの祈りをたくさん見た。元旦の祭りの儀式も運よくみることができた。神社は身近なはずなのに初めて儀式的なものをみて、全員がテキパキ動いていたのにとても驚いた。能みたいなゆっくりさを想像していたが、とてもスピーディーに座ったり立ったり拍手したりという動きをしていた。見慣れなすぎて、遠くから見たら謎の宗教儀式としか思わない。本当になにも下調べをしておらず、たまたま儀式に遭遇したため、突然日の出とともに白い服を着た人たちがザッザッと現れてきて、全員が蹲踞のような姿勢になった瞬間、怖すぎて友人とふたりでちいかわが知らない生き物を見たときみたいになってしまった。

 

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・2025年は本当にいろんなことがあったが、直近悩まされてた恋愛のことを年末に清算することができたのでスッキリした気持ちだ。8月の日記に、「2025年は終わりの年なのか。」と書いていた。ほんとうにそのとおりだった。8月の終わりに、大好きだった珈琲屋さんが閉店して、それが何故か私を後押ししてくれて、距離を置く決意ができた。そもそも、冬には前同居人と住んでいた家からの引っ越し、転職もあり、徐々に終えることをやっていたが、それは自分がうまく主導できた終わりだった。でも夏からが本番で、自分の傷つきや間違いを直視しながら、しっかりと捨てていくことが求められた。なかなかうまくいかなかった。珈琲屋の閉店が私に教えてくれたのは、終わりを知ったときには、たとえまだ終わっていないとしても、すでに終わっているということだった。それでも終わりを受容するにはとてもとても時間がかかった。

 

・この8月末で日記を書くのもやめた。それまでは書くことが自分を助けてくれている感覚があった。でもこの1件で、書くことが自家中毒みたいに自分のことを苦しめていくこともあると知った。すでに頭ではわかっているのに、感情的に折り合いのつかないことを解消するのに、論理でいくら証明を再演してもうまくいかない。これまでだいたいの感情は書くこと、考えることによってコントロールできると思っていたのでそうではないのだなということがわかった。そんなことも知らなかったのかと思う人もいるだろうけれど本当に知らなかった。

 

・9月以降も自分の状況のチェックポイントとして書くことは一応していた。見返すと自分のコーピングのログという感じだな。書いて分析することはしなかったけど、ただ起こっている感情を見つめるという意味での書くことは引き続き自分のためになっていたみたい。書くことで何かを発見するのではなく、日常の中で発見したことや感情のゆらぎ自体を書き起こすという意味での「書く」。

 

・ブログに書くことがいっぱいあると思ったのにあんまりないかも。

 

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・10月に橋本ロマンスさんのWSに参加し始めてから、止まっていたダンスの時間がまた動き出した。いや、最初のほうは正直動いてなくて、前のブログでも書いたけど、テーマが大きすぎて自分に落とし込む余地がないし、他の参加者もまだよそよそしくて、恐る恐る言葉を発するような場だった気がする。個人的には前半にあった横浜の歴史や街に関するレクチャーと、クリエエーション/ショーイングが最後まであまり直接は連続していなくて。参加者の中には。自分はいつもこのような不均衡や権力関係について考えていて、クリエーションでそれを出せた気がしたと言っている人もいたのだが、クリエーション/ショーイングはcollectiveな行為だと考えているので、全体としてどうだったかという意味でやはり連続性は感じられなかったと思うし、それはあまり普段そのイシューについて考えているかどうかということとは関係がないと思った。むしろ普段考えている人、いない人、その人達が一つの場所に向き合ったとき、何が生まれるのか、というのがこのクリエーションの問いだったと思うんだけど、結果として、まずはお互いを知らないと対話すらできないよねという結論に至った気もしている。クリエーションを経て、そのあまりにも違うそれぞれの身体や視点について初めて知った。そしてやっとこのあと初めて横浜の街に目を向けられるのかなと思った。し、目を向けるとしても、そこに立つ自分、それを見る自分(あるいは、横浜にゆかりのある人にとっては、そこに生きる自分)を踊ることしかできない。ではそもそも横浜の街について他の人と一緒に考えて作品を作るというのがどのように成立しうるのかというのは未だに答えがない。

 

・ただ一つ明確にわかったこととしては、ダンサーというのは語りであり、振付家がその語りを解釈し紡ぐエスノグラファーのようなものであるということだった。これまでは、カルスタ的な個人の物語と社会の構造をつなぐという作業をダンスでどのようにできるのかということに興味を持っていたのだが、そもそもそれは振付家・ダンサーという役割が分かれている環境においては、インフォーマントが最終的なエスノグラフィについて考えるようなものだった。だから、ダンサーとしてクリエーションの場でやるべきことは、自分が動くにあたって、どう動きたいのか、周りに起きていることに対してどのように動けそうかということに集中して、真摯な語りをするということ。自分が経験していない誰かのことや、「私たち」とくくった大きなものについて語ろうとするのではなく、あくまで私として踊るということが大切なのだと思う。

 

・今回のWSでは、あまりにも他人の身体が違うのと、規範的なダンスの動きが場を支配していなかったので、身体を動かすためには何かが外・内で起きないといけなかったし、何かダンスっぽい動きをやろうとしてしまったときにも、「なぜこの動きをするのかわからない」という違和感にとても気が付きやすかった。初めてクリエーションのときに、こういうきっかけがないと動けないなとか、こういう感情が湧くからこういう動きしかできないな、とか、自分のことを確認しながら動きを作っていく必要性が身を以て体感できた。このあとダンスの稽古に行って簡単なクリエーション的なことをしたのだけど、こう動きたいな、がちゃんと出てきたので何か一つ超えられたかもしれない、と思った。

 

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・ピナの作品を見て感じる違和感についてもこのエスノグラフィの比喩を使って考えると良い気がした。11月末にさいたま芸術劇場で「Sweet Mambo」を見た。これを見てまた踊りたくなり、稽古場に戻ることになった。それくらい好きなダンスなのだけど、同時に、ピナの作品のスレスレさをずっと考えていた。Kontakthofを見たときにも思ったのだが、女性の人生がその人自身によって語られたり、踊られたりするときに、その人が内面化してしまっているステレオタイプ・性差別的なものも同時に純粋な情景として踊られてしまっていて、そこに対して振付が何もできていないというのが気になるのだと思う。

 

・ダンスシアターは、そもそも個々の語りを特に強調するジャンル・作風だと思う。振付家が与える全体のナラティブがとても少ない。個々の語りそのものがとても際立つ。だからこそ、直接的な情動を感じて感動しやすい(もちろん、まっすぐなナラティブを期待する人にとっては最初は混乱する体験なのだが)。そこが良さではあるのだけれど、ピナの作品では前述のような内面化されたステレオタイプが踊りとして現れてきたときにそのままそれを舞台に配置してしまうし、それも情動の装置として利用してしまっている傾向がある気がする。もしこれがエスノグラフィなら、インフォーマントが差別的な発言をしたとすると、それを引用するにあたって、その発言の背後にある社会的な構造と紐づけ言及することで、語りををそのまま差別的な発言として届けることはしないだろう。そのまま記事にしていたらそれはタブロイドだ。

 

・最近再演されているピナの作品では残念ながらそのような紐づけや意味づけの作業がなされていないと感じる。ダンスがエスノグラフィと異なる部分は、規範的なものに対する転覆可能性を形もしくはナラティブとして示すことができる点だと思う。論文ではあくまで、それを示唆することしかできない場合が多いだろうから。でもそれが行われていないということをとくに残念に思う。ピナはもう亡くなってしまっているし、作品自体の初演は20-40年前なので、難しさはあるのだろうけれど、映画などと違ってパフォーマンスの場合は作品をそのまま演じなおすことが再演ではないのだから、現代で再演する意味というものが考慮されているべきだとも思ってしまう。ピナ自体はバレエやモダンダンスという規範的な踊りに対してかなり反規範的な踊りのジャンルを立ち上げた人ではあるし、女性がここまで個人的なことを語るということ自体が1970-80年代にはとてもラディカルなことであったと思う(ヴッパタールでピナが初期作品を上演したときにはものすごいブーイングがあったと聞いたことがある)。その精神を引き継ぎつつ現代の作品として上演することはできないのか。

 

・やはりダンサーと振付家の仕事は違うし、ダンサーが振付家の仕事をするというのはむずかしいのだろうか。クレジットを見てみたら再演アーティスティック・ディレクションという役割の人がいたようなのだがどのくらい作品づくりに参加しているのだろう...

 

・2026年はダンスに現実的に向き合っていくことを試したいと思う。昔は何か機会があったら全てにyesと言うようにしていたが、現実的にyesとは言わないほうがよいということがわかってきた。できない約束はしてはいけない。真剣にやるフルタイムの仕事は2つ持つことはできない。前カンパニーにいたときは、2つのフルタイムの仕事を兼業してしまっているような状態だった。フルタイムが問題というよりは、おそらく組織の中に入り込んだ状態で仕事をするということを同時に2つやってはいけないということだったのだと思う。どちらかは個人の仕事であるべきなのかもしれない。

果物の部分(さいきんの断片)

・10月から橋本ロマンスさんのWSに通っている。初回はバレエやダンスの西洋中心主義や人間中心主義的な歴史の話とクリエーション。2回目以降はゲストレクチャラーを呼んで横浜についてのリサーチ。関東大震災の証言を読みながら街を歩いたり、旧青線地帯を歩く。(2回目の華僑の学校の回は行けず。)大体レクチャーのあとはみんな頭がいっぱいで、身体を動かすまではいかない。すこしテーマが大きすぎるのかもしれない。

 

・「身体は何でもできてしまうからこそ危ない」「簡単に身体は動かせない」となんども言ってくれるのが頼もしい。私の知っているクリエーションは、時間が決まった中で与えられたテーマで動きを出し続けなくてはいけないというプレッシャーで、私は本当に動きを考えるまでに時間がかかるのでつらかった。あとは身体を他人に対して開くまでにとてもとても時間がかかるので、コンタクトを伴うものについていけなくてつらかった。こういう鈍い身体を持った人のためのダンスはないのかなって何度も思った。でも身体はあるし、動きはあるんだけど出てこない。

 

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・最近身体の話をするときに、ネオリベ的身体とか、近代・中世の身体とかいろんな考え方があるけど、自分の身体をどう捉えたらいいかわからない。自分の身体は柔軟に資本主義のなかでフィットできる身体であるという意味でネオリベ身体なんだけど、本当に特権的な身体だったら私はうまく踊れていたとも思うんだよね。マッチョな身体としてダンスしていたはず。それはできない。でも周縁で生まれるような身体性も持ち合わせていない。私は殻にこもることで自分を守ってきたから。でもその殻と筋肉(概念としての筋肉)は何が違うんだろう。

 

・私がここで書いているネオリベ身体とは、individualityが強調され、「個」が柔軟に社会の中で役割を埋めていくことを要求される一方で、個々人による自助が最優先され、公助が後回しされるという新自由主義的社会の中での理想的な身体性のことを指している。私がどのようにしてこの身体性を獲得したか。地域社会に交わらず、国立付属の学校に行き、劇団に行き、子役として仕事をし、受験をし、「価値」を証明することでコミュニティにいさせてもらうという感覚を養ったんだろうな。今でも「価値」を証明することで尊厳を獲得しようとしている側面はある。

 

・小学校のときバス通学をしていて、帰りの30分でひたすらに一日で起きたことを反復して何が悪かったかを考えていた時間のことを思い出す。自分が言ったことが悪かったことは認識していても、何度も言ってはいけないことを言ってしまっていた。この一つ一つの気まずい出来事を一生忘れないのかなって思うこともあった。高校の頃には勉強もできるようになったし、行事の取りまとめなどをやっていたことで、多少周りからもいい印象を持ってもらえるようになっていたようなのだが、附属校だったことで自分の過去のことが名前や身体に積み重なっていることが恐ろしくて大学に入ってからは距離をおいた。でもこの時期に価値をもって一定悪い印象も洗い流せるということを学んでしまったのかもしれない。

 

・自分の部屋も自分の身体なのだと最近気がついた。そういえば留学していたときにも自分の部屋にほとんど人を招いたことがないなと思った。このあいだ友人がお土産を届けに私がいないときに部屋に立ち寄ってくれたのだが、会っていないのに他者が自分の中に入ってきた感覚があって、それだけでソーシャルポイント(人とあったときに消費するメンタルポイント)を消費していた。これまで居住空間自体を人とシェアしていたのであまり気がついていなかった。家にもう一つ部屋があれば大丈夫なのかもしれない。寝室に誰かがいるというのが嫌なのかも。

 

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・過去の恋愛のことは少しずつ落ち着いてきた。だんだん相手のことを忘れてきて、自分の感情の行き先としての概念的なイメージになってきた。別にそれがその人である必要性がなくなっている。自分の気持ちを整理する中で、自分の思考に裏切られるという体験をはじめてした。今まで基本的になにか感情的に辛いことがあっても自分の中で整理して、問題を特定して、感情を落ち着けることができていた。だけどこの恋愛のことはもっと自分の根底的な情緒に関わる問題だったようで、思考を巡らせるということが毎回傷口を開けて中を覗き込んで、出血多量でまた絆創膏をするみたいなプロセスで、傷が治るどころか悪化しそうになった。思考すればするほど悪くなるというのは想像していなかったのでびっくりしてしまった。それで10月の終わりからは一旦頭の中を空っぽにするようにして、それで少し落ち着いた気がする。ポケモンZAとColor Block Jamよ、ありがとう。何も考えずにやることがあるというのはありがたかった。残業もそこそこしてしまったけど、会社の人と仲良くなってきたからか、誰かと一緒に居れるのがうれしくて長くいてしまった。

 

・最近は自分に言うべきことがあるのか、というのがわからなくなっているのだが、そういうことは別に考えなくてもいいのかな。とりあえず言いたいことはあるのかなって思って書いてみた。多分これまでは思考を止めていたから言うことも特になかった。今日久々にゆっくり本を読んだり、電波の届かないカフェで(あえて電波がないところに行ったのではなくDocomoの電波がクソだったため)ぼーっとしていたらはてブにはなにか書けそうな気がした。

 

・果部(はてぶ)←はてブの変換がどうしてもこれになる。果ての部活、もしくは、果物の部分。

遠くからしか見えない線(ホーチミンにいったよ)

香港とホーチミンにいってきた。もともとは香港に3泊4日で行く予定だったのが、トリプル台風の予報がでており、急遽ホーチミンに飛んだ。

香港は初めて訪れたので楽しかったけれど、ホーチミンのほうが私は楽しかった。というのも香港では映画・現代アート・エッグタルト・・・とたくさんの記号を浴びた一方であまり土地の文脈に触れることができなかった。これはオーセンティシティという意味ではなく、土地の歴史や生活レベルでの文化に目を向けられるかという意味。どっちにせよ観光客でありつづける以上オーセンティックに見えて表面的な記号を消費しているにすぎないというのもわかっているのだが、その場所に流れる時間やそこに暮らす人に思いをどれくらい馳せられるか、ということが自分にとっては大切。ホーチミンではその時間がたくさんあって、頭をたくさん回せたのでたのしかった。

ホーチミンでは前回行きそびれたベトナム戦争戦績博物館に行けたのがとてもよかった。なぜ前回行かなかったのだろうと少し悔やむ。せっかく南北を縦断する機会だったのだから、この歴史を知らないまま行くべきではなかったかもしれない。でもその時の自分は東南アジア自体に来るのが初めてで、色々と圧倒されていてあまり考える隙間がなかったのかも。

冷戦期の歴史はそこそこ知っているつもりだったけれど地域レベルになると全然わかっていないことに気がついた。ベトナム戦争戦績博物館に行く前に、Fine Artの博物館も見ていて少し勘づいていたが、やはり戦勝国としての展示なので、その視点で考えなくてはいけず難しかった。

アメリカ=戦争犯罪を行ったベトナムの敵、とシンプルに理解することはできない。冷戦期の傀儡戦争だから、内戦でもあり、国際戦争でもある。北ベトナムが政権を獲得しているが、今私がいるこの「ホーチミン」と名付けられた場所は南ベトナムであり、西側のジャーナリストは南ベトナム側に入って米軍の負傷兵の写真も取るが、米軍によって撃たれるベトナムの農民の写真も撮る。誰が何のために戦っているのかわからないまま、ただ人が撃たれたり焼かれたりしていて、一番関係のなさそうなベトナムの農民たちが、一番ひどい目にあっているということしかわからなかった。博物館の建物のまわりには、アメリカの戦車やヘリコプターがたくさん展示されている。これは何を言いたい展示なのだろう?とめまいがしそうになった。英語を話すツアーの集団や家族が戦車やヘリコプターの前で写真を撮っていた。枯葉剤の展示では、逆に米軍側にも枯葉剤の被害者がいることを知ることができた。確かに彼らも枯葉剤のまかれた土地で戦っていたのだから当たり前なのに考えたことがなかった。

東京写真美術館の原爆写真展を見に行ったときと近しい感情になった箇所もあった。大怪我をしている人の写真を見て人は顔を歪めるけれど、この人はどうなったんだろう?などと考えるからかその写真の前に一定時間とどまる。しかし、明らかに亡くなった身体が写っていると、私達は直視できない。

原爆写真展とは違って、報道写真家が撮った写真だから、そのバイアスを感じることもあった。ベトナム戦争アメリカ兵として従軍した人たちは、貧困層が多かったときいたことがある。彼らは戦争に行く代わりに大学学費が補助されるなどの理由で、志願していった。その中でも黒人兵は多く、人口に占める黒人の割合が当時12%だったのに対して、全軍人の25%を占めていたという。しかし、私が見た限り、展示されていた報道写真で黒人兵が写っていた写真は1枚だけだった。これは展示自体のバイアスなのか、撮影者のバイアスなのか、写真の賞や報道機関側のバイアスなのかわからない。ただ、展示されていた写真の多くは賞を取ったものやヘッドラインを飾ったものなので、おそらく展示というよりは当時の米国の報道機関にあったバイアスなのだろう。そして展示側も特にそれを是正しようという意図がない。

aavmwny.org 

展示を見てもこの戦争の構造が全然わからなかったので、ホテルに帰って近藤紘一や開高健の本をKindleで買って読み始めた。近藤紘一の『サイゴンのいちばん長い日』と開高健の『ベトナム戦記』を読んだ。ふたりともサイゴン(現ホーチミン)に滞在しており、近藤紘一に至ってはサイゴンで妻を見つけている。開高健も近藤紘一も語っているのは、誰もベトナム戦争のことについてはよくわかっていないということだった。近藤紘一の『サイゴンのいちばん長い日』は、サイゴン陥落までの期間がルポルタージュ形式で書かれている。一番衝撃的だったのが、北ベトナム側の軍がダナンまで来ていて、市民たちは海路で脱出を試みるも、その過酷な道のりで亡くなる人も多く、海に亡くなった子どもたちの身体が捨てられていった、そのことをサイゴン市民は知らされていなくて、変わらない日常を過ごしていたという場面。きっと戦争というのはそういうものなんだろうと思った。自分の家が燃えるまで、戦争があるということに気が付かない。それは情報統制や、非常時のバイアスや、格差によるものだと思う。高見順の『敗戦日記』でも、高見順のところに戦争が来ることは最後までなかった気がする。戦争に対する距離感でいうと、近藤紘一も高見順も概ね同じだったようにも思える。

私の感覚だと、戦前戦後は第二次世界大戦によって線が引かれているけれど、開高健の文章を読んでいると、その線引きは絶対ではないことを改めて思う。1965年は1945年からたった20年しか経っていない。開高健も、米軍の作戦に参加しているときに、第二次世界大戦のときに体験した機銃掃射を思い出している。元日本兵がベトコンにゲリラ戦を教えていたというような話もでてくる。彼らにとっては戦前戦後もなくて、ただ戦争が当たり前のようにあって続いていっている。それは今の私達にとっても同じはずなのに、そう思えていないということが問題だ。「戦後はまた次の戦前である」というのは関口涼子さん『ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)』で書いており、それを読んでからずっとこの「戦前/戦後」という二元論の虚構について考えている。戦争から遠いからこそこの線引きが可能なのであって、それは特権だと思う。Peace for Allとよく言うが、それは永遠に達成されない気もしてしまう。生まれながらの距離が一定決まってしまっている。それでも唱えることが大事というのもまた分かるが。

香港とベトナムの共通点/違いや、香港でみた展示についてもいつか書きたいが一旦おわり。

終点についたら手すりは粉だった

自分がこのブログを更新していないせいでトップページにビズリーチAmazon千葉ロッテマリーンズの求人をおすすめしてくる広告がでるようになってしまったので何かわからないが書いてみる。

 

以前私の日記を読んだ友人が、私の人生の向き合い方は「何かを成し遂げようとすることを何かを成し遂げるための起点とする」ようなものなのではと書いていて面白いなと思った。私は確かに、起点をそのように捉えているかもしれず、それは幼少期からずっと「仕事」というものに囚われてきたからでもあるだろう。遊びというものがなく、すべてが「稽古」で、その稽古の先には、仕事とか、その舞台の本番とかがあったりする。「成し遂げる」と言われると、何かを刻印している感覚が強いので、その感覚はないのだが、終点に向けて起点を打ち立てるというような生き方をしているような気がする。ただし、終点を過ぎたらそれまでの過程は結構なかったことになるかもしれない。私は過去の感情とかあったことを結構忘れてしまうし、何かを後に残したいという意志も、何かを積み上げながら進んでいくような粘り強さもないので、一瞬の間に起点を打ち立てては終点に向かったら、その間に作ったものは砂のようになっている。ただし、そのつくる過程で自分の内側は何らか変化しているという感じ。あくまで自分の内側だけが変わっていっているので、自分がいつかなくなったらなくなるものだし、別にそれでいいと思う。究極そこにしか興味がない気がする。

 

舞踏家の最上和子さんのツイートで、以下のような文章があって心を強くした。

(私は今恋愛でゴチャゴチャになっているため・・・・)

 

↑で書いた内側の話はこの内的体験の話かもしれないと思った。まさにこの間までの相手とは、何を話しても相手の内面をすり抜けていくような体験で、またもや中身のない人に振り回されたのかともはや自分にがっかりしてしまっていた。その前の人は、本当にメタ認知もなくて何も言語化できない人だったけれど、今回の人は内面があるように見せかけて、実はすべて大量生産品の既製品としての語りだったというような感じだった。ZOZOで売っている少しユニークな服を、本当は別のデザイナーのパクリに近いものなのに唯一無二なものとして喜んで着ている人みたいになってしまっていた気がする。でも、自分の作業としては深いところまで入っていけたから、その機会をくれてありがとうねと思うしかない。

液体のまち

前・同居人とバイバイして新しい部屋に住んで丸3ヶ月が経った。まだ3ヶ月なのか。もう半年くらい経ったのかと思っていた。まだ親類には話せておらず住所も移せていないが、朝起きたときの景色には慣れてきた。誰も隣にいないことに気が付き、安心することはあるが不安になることはない。転職したあとで良かったと思う。転職で年収が上がったので金銭的な不安がかなり減った。これが自分の持つ大きな特権だ。今の世の中の仕組みと合っているので健康に働き続けて出世できる。なんで仕事をしていてこんなに健康なんだろう。

前・同居人とこういうことになってしまったことについて考える頻度も減った。今度会うのだが、いまごろ何を感じているのだろう。向こうも同じ気分だろうか。去年の9月に、旅をすることの定義について話したことを思い出す。私は前・同居人の、一人で淡々と旅をしつづけるところが好きだったのだけど、私はその旅のクルーではなく、旅の出発地の基地の人間であった。そして、その基地を一緒に新しく建てようという誘いだったのだということがわかった。私には基地はいらなかった。そもそもどこかに根を張りたいと思っていないし、どこにも張れないと思っているから。

なぜこの違いが生まれるのか、私は都市の人間だからなのかもしれない。都市で育った、でも家族としては根っからの都市の人間ではない、微妙に土地に張り付いた浮き草みたいな存在。都市の土地自体が液体みたいだからなおさらだと思う。根を張る余地がない。私はその中でもいつも、みんなが張り付いている大きな石には場所を確保できなくて、側面とかのボコボコしたところにいて、大きな波が来たりするとフワッと何処かに飛んでしまうような感じだった。その規範という石への乗れなさ、でもその代わり、都市の水の中でなみのりするのはわりあいと上手になった、のかもしれない。というか、うまくなみのりできているから健康で、それができたのはたまたま特権(健康な心身・文化資本・都心の実家など)を持ち合わせていたからということなのだが。

いま関係のある人は同じく都市・資本主義なみのり勢で、それで意気投合したのがはじまりだったけど、この人は資本主義のビッグウェーブをずっと待って乗ろうとしているのが透けて見えて、別にそれに乗ったからってその先に石があるわけでもなければ、その波の下でどこにも掴まれなくてぐちゃぐちゃになってる人に馳せることもできないのだから、つまらないなって思ってしまう。これは自分にも同じことが言えて、それなら波に乗るのをやめなよって思うけど、それはやめられない。ただでかい波に乗ろうとしないだけで、ちいちゃい波にずっと乗って安定しようとしている。その下でも絡まってどうしようもなくなってるものたちがある。うちらはドローンでちょっと上から見たら起業しろおじさんとほぼ同じ生態だし。これ書いてる自分もキモくなってきたので終わる。

 

場所・瞬間・音楽

本でも映画でも音楽でも何でも、新しいものに手を出すより、一度好きになったものをなんどもなんども聞いてしまう性質である。小学校のときはハリー・ポッターを夏休みに必ずすべて読み返すのが恒例になっていたし、ダレン・シャンに至っては12巻までくると1巻のことを忘れはじめているのでまたはじめに戻る、というような読み方をしていた記憶がある。音楽も同じで、だいたい1ヶ月くらいは同じアルバムやプレイリストをずっと聞いていて、どこかでぱっと気が変わってまた別のものを聞きはじめ、それをまた飽きるまで聞くというのが続く。特に最近は、新しいものとの出会いも少なくなってきていて、季節の変わり目になると去年自分が作ったプレイリストをコピーして2024とか名前をつけて、まだハマり中の曲があればそれも入れ、2割くらいだけ入れ替わったプレイリストを聞く、みたいなことをしている。

そんなだから音楽を聞いていると、それをいつどこでとくに聞いていたか、というのが鮮明に思い出せる。なぜか本では同じような気持ちは起きにくい。本もあちこち持ち歩いているはずなのだが・・・。特定の場所や時間の記憶がつよく紐づいている曲をいくつかあげてみる。

 

エナジー風呂/U-zhaan, 坂本龍一, 環ROY, 鎮座DOPENESS

これは2019年のロンドンのOxford Streetの記憶。Oxford Streetというか、Oxford Streetに行きたいのだけど、そのあたりは道路がすごく混むからバスに乗っているとだんだんイライラしてきて、テムズ川を渡ってすぐトラファルガー広場の手前くらいのバス停で降りてしまって、お散歩したほうが楽だよねって感じになり、SOHOとかOxford Streetを最終目的地にただただ歩いていくときの記憶。ロンドンのヴィクトリア時代の建物みたいなものに特にロマンを感じず、古い白い建物だなあとしか思わなくなってくるような時期で、海外に住んでいるんだぞという気概もありながら、友達いないなあ、日本帰りたいな、お風呂つかりたいな、でも帰ったら負けな気もするなあ(帰れないし)、日本語の曲ばかり聞いていて良いのだろうか、みたいなきもちになっていた。歩き回って、見たことないものとかきらびやかな街をみても、別に買い物がたくさんできるわけでもなく、外食もできるわけでもないけれど、日本食スーパーに少し寄って心を温めるものを買って、住んでるエリアにはない良いスーパーでお菓子を買ったりして楽しんでいた記憶がある。

 

BADモード/宇多田ヒカル

アナザーロンドン記憶。これは2021年のロンドン。前住んでいたところとは違うところに引っ越して、もう少し肩の力を抜いて生活できていた。変に日本人とつるまない!とかは一切やめて、日本の友達とも助け合いながら、ほかにもいろいろな友達ができたり、できなかったり。このアルバムは特に近所のスーパーに買物に行くときによく聞いていた気がする。家の近くに教会があって、その前の信号で待っているときの記憶とか、落ち葉が青空に映えてすごく綺麗だったこととか、肩の力は抜けているものの、やっぱり根無し草で、歩いていても東アジア人は全然いなくて、よそ者として見られているんだろうなという認識をずっと持ち続けながらも、比較的慣れ親しんだ街を歩くあのときの感覚を思い出す。

 

No Confusion (feat. Kojey Radical) / Ezra Collective, Kojey Radical

新卒入社してすぐのときの曲。駅直結の会社だったので、駅についてから最後の1曲を流すとちょうど曲が終わるころにオフィスの自席につく。この習慣はこの会社に勤めている間ずっとしていたのだけど、その一番最初の曲だから特に覚えている。研修がつらくて、当時飲んでいた薬があんまり合わなくてものすごく眠気もあり、なんとか頑張るぞと自分を奮わせるために聞いていた。最初にKojey Radicalが、I'm playin jazz my wayって言うとこがかっこよくて、my wayだよな!!って勝手に共感していた。

 

女神/井上陽水

2023年の夏(多分6-8月)の記憶。この時は井上陽水にめちゃくちゃハマっていて、いろんな曲を聞いていたけどこの曲が一番聞いた気がする。仕事では出張に1ヶ月おきに行き、2ヶ月おきに舞台に立ち、プライベート0で意味わからないくらい身体と精神を酷使してよくわからないけど日々立っていたとき。頑張りたくて、でもなんのために頑張っているのかは言語化できなくて、誰かの期待に応えるためにやっているような気がしていた。

だれかの女神になるんじゃなくて、自分が自分の女神になるし、わたしを利用しているようにも感じる周囲の人達こそが、わたしの女神である、そうあるべきである、と思いながらも、実態としては自分のやりたいことを主張できないしそもそもなにがやりたいのかもわからないから、他人の期待に応えるために働いているような構図になってしまっていた。だからこの曲を聞くたびに、自分が自分の女神になるんだという決意の気持ちを持ちつつも、そうはなっていないという状況が、曲のノスタルジーな雰囲気に乗っかってほろ苦く思い出される。

 

BASH BASH - feat. JP THE WAVY&Awich

これは2023年9-10月くらいによく聞いていた。というか、この曲は激務のときやプレッシャーを受けているときに聞いていたので、時期というよりはその時の精神状態の表れという感じかもしれない。「仕事が遊び・遊びが仕事」っていう、労働者が聞くには資本家に都合が良すぎるわね、って感じの歌詞だけど、こうやって考えていないとやっていられなくて聞いていた。とくに9月は、仕事もグッと忙しくなりはじめ、ダンスでもほぼ即興の舞台をやることになり、即興全くできないし出張もありながら体力維持して稽古についていくので精一杯だった。とにかく全員ぶっ潰すって考えながら、目がギンギンでお腹が上がったまま(これは整体の人に指摘された)朝電車に乗りながらビジネス本をめちゃくちゃ読み漁っていた。具体的にだれかに憎しみを抱いていたというよりは、北斗の拳とかスーパーサイヤ人的な破壊的パワーを自らに宿らせたい、そうしないとやっていられないみたいな精神状態だったのだと思う。

 

Ditto (250 Remix) / NewJeans

冬(正確には夏)のオーストラリアの記憶だ。NewJeansって全体的にない青春の記憶が勝手に蘇ってくるんだけど、Dittoは特にすごい(大谷翔平のDittoの動画話題だったよね)。でもこの時仕事に没頭してたこと自体が自分の青春だったと思う。そのくらい、仕事と私生活のベン図がほぼ重なってきていた。実際、出張があると土日とかも会社の人と居ざるを得ない(楽しいけど!)し、土日がなんなら本番みたいな業界だったので、頭はそっちにずっと行っていて。このときはダンスも辞めて、頭がスッキリして、やっと仕事に集中できる!って思っていたから、部活に没頭する、みたいな感じで楽しかったのかもしれない。プライベートでは、ダンスを辞めたと思えば仕事に没頭するので、同居人はそれに対して何か思っているだろうなと思いつつも(元からダンスについてもよく思われていなかったので)好きにやらせてくれよという思いが強くて、逆張りするように仕事に更にのめり込んでいったという感じだった。

 

B.I.G hAppA / 舐達麻

確かDELTA9KIDが逮捕されてる間の曲かなんからしい。3月のオーストラリアで聞いていた。出張中泊まっていたところの近くに川があって、その橋を毎日渡るんだけど、そのときに勝負曲をだいたい聞いていた。この景色がいつまで見れるのかな、って思いながら、また見れると良いな、見れるために頑張るぞって思ってたから、勝負的な曲が必要だった。この時期はJ-RAPにちょっとハマってて、わかりやすい男のBling Blingとか、女の価値はセクシュアルな価値みたいな女性ラッパーの歌詞聞いて、アホやなって思いながらも、実際自分もやってること一緒かそれ以下だな(しょうもなさ的に)みたいなことを考えつつも、そういうのが聞きたい気分あるんだよなって思っていた。その中でも舐達麻の歌詞は(あんまり歌詞聞いていないけど)良いなって思って聞いてた。そういう即物的なものには意味ないってことを前提にしてるから。

 

Supernova / aespa

たしかこれのリリース日が5月とかだった気がするんだけど。ちょうど社内政治まっただ中ですごく苦しかったとき。そのときにaespaの曲に助けられていて、dramaとかspicyをすごく聞いてたんだけど、その中で新曲が出て、はじめてカムバックに立ち会った。渋谷の新南口のベローチェに確か向かっている道中にMVを見ていて、やよい軒のカドを曲がってベローチェがチラ見えしたくらいの瞬間にあの印象的なブリッジ部分が流れて、それまではまあかっこいいかな?ってくらいに思っていたのが、格好良すぎてすべてが吹っ飛んだのを覚えてる。社内政治で戦っていた間、わたしがやっていたことは残念ながら意味を成さなかったんだけれど、すごく勇気をもらえたし、あの時なんとか毎日起きて会社に行けていたのはaespaの曲があったからだと思う。

 

これ以上あとになるとまだ思い出になりきっていないから書けないな。また来年とか思い出して書こうかな❕️

ロマンスの名残、あるいは残りカス

7月に会社を辞めてから、日記を頑張ってつけていて、8月末までつけていたのだけど、9月で急に止まってしまった。1日からいきなり大きなイベントがあって、日記に書き起こすことが難しい気持ちで書けていなかった。2週間経って、少し客観的にかけるような気もする。

1日、事実婚を解消したいということを同居人に伝えた。12月くらいまでに伝えられればいいやと思っていたのに、外でご飯を食べていて、話の流れで、伝えることが必然的になってしまい、言うことになった。明らかに、お互いがイメージしている関係性の理想像がかけ離れてしまっていること、そして、人生や家族についての考え方が真反対を向いていることが明確になったから。そのずれは既に半年以上あって、お互いそれに気づいていたのにしっかりと見つめる勇気がなく、その間に複数の決定的なことが起きてしまったという感じだった。同居人は、続ける、ということを約束することで続けて、永遠を目指すというところに美徳があるのだ、という趣旨のことを言っていた。わたしも以前このようなことを信じていた側面もあるのだが、今は全く逆で、関係性は思いが続く限り続けていけばよいことで、結果として永遠に近くなったら美しいけれど、永遠を作るために外部の力(制度・常識のようなもの)を用いる必要があるのであれば、それは続ける意味は特にないんじゃないかと思う。ここが根本的に合意できない点だった。

そのうえ、この「永遠」のなかには子どもの話も入っているように見受けられて。子どもというのは、私自身の身体の問題であり、社会的な表象の問題でもあり、どうしても譲れなかった。一般的に見ると、わたしが明らかに異常者で、わがままを言っているようにしか思われないんだろうなって思うけれど、その発想自体にfuckを突きつけたいし、そのために独自の人生をつくっていきたいと思っているから、今度またパートナーをつくるとしたら、それを一緒にやってくれるひとがいいと思った。

事実婚を決めたときのわたしは、パートナーシップとか、「結婚」というものに、自立性を投影していて、それにすがることでなにか別のものから抜け出したつもりでいたみたいだ。でも実際は、また別の檻の中に自分を入れてしまっただけだった。この話も同居人にしたけれど、全くよくわからないといった様子だった。

結局、「同居人」という関係性としてこの生活を名付け直せないか、という話をいまはしている。生活をともにするひととして、相性が良いことには変わりがないし、実際この話をしたあとも、生活は変わらず続いていって、その関係性には影響がないようにわたしは思えた。ただ、それがロマンスの名残、あるいは残りカスが見せている幻想だったら困るので、少し経過観察の時間を持ってみることにしている。

会社も辞めているのに、こんな話をしたら家がなくなるな、実家に帰る準備をしないと、などと考えていたけれど、結果として、一番体力のあるタイミングでこの話をしてよかったと思う。仕事がないし、パートナーもいないし、ってなるとすごく不安になるかもって思ってたけど、実際は、それがないこと自体が本来の自分であって、孤独とか不安をないことにして生きている状態こそがリスクだったんだと気づいた。もちろんずっとその状態でいたいかというと違うのだけど、そのむき出しの自分に向き合ったうえでキャリアとか人生の方向性を再度選び直せるのは最高だなっていまのところは思っている。