さいきんの断片

中華街で占いをした。この2年は天中殺らしいのだが、天中殺でやってはいけないことをすべてやってしまっていた。最終的に、「末端冷えるとか感じてる?」「手に赤いポツポツがあるので貧血かな?」と誰にも言えそうなことを言われて終わる。

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夢をよく見る。一昨日は慣れない赤ワインを飲んだせいで酔っ払い、水を死ぬほど飲んだせいで1時間おきに起きてトイレに行った。その度に違う悪夢を見る。でかい虫の夢も見るし、今現実に起きている天国なのか悪夢なのかみたいなできごとのワーストケース・シナリオをすべて見た。恋愛関係についてNDAを結ばされる夢もみた。起きたら夏の国のエアビーの中で寝ていた。

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先週の土曜日に見た、舞台『ねじまき鳥クロニクル』が全然よくなかった。第一部で帰ろうかなって思うくらい、暴力とセックスの必然性が何も感じられず不快だった。

原作を読んでいないかつ、飽き飽きして見ていたのであまり記憶がない上での読みだが、あれは原始状態とか、現実界のロジック(=暴力、性)に入っていって人間性を取り戻すみたいな話なのかな。

上記を表現するために、暴力とかセックスをそのまま現実のものとして舞台で描くということに私はあまり必然性を感じない。それをより抽象化できるのが舞台の力でしょうが、と思うから。すごくステレオティピカルな表象でつまんねってなっちゃった。ダンスもきれいだったけど、きれいだねとしか思わなかった。

あとこれは話の問題だけど、妻と兄(=悪の象徴として描かれる)には近親相姦的な関係があるんだけど、それを断ち切る手段が現実だと殺人になってしまってて最悪だった。

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ダンスのカンパニーをやめた。もう耐えきれず。12月の公演は出張行くからと言って断った。あの場所に戻れなくてもいいやって今は思う。ツイッターに稽古の写真が出てくる。これって何が面白いんだろ?って。もしかしたら、劇場で見せるダンスというものにあまり今は興味を持てないのかもしれない。

同時に、私は多分誰かに見られるということからはどうやっても逃れられないと思う。それはあまり心地よいものではないけれど、それが人生のそばにずっとあって、何もしてなくても集団の中でどうしても目立ってしまうので、それならもうそれを活かしていくしかない。できるだけ潜水艦みたいに潜っていて、肝心なときに地上に上がっていきたい。今は深い深い海にもぐっているところ。

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自分の仕事のスタイルがすごく身体的なものだということに気がついた。私は比較的一回やったことは次ミスしないんだけど、それはなぜ?と研修で問われて特に答えられなかった。メモもしていないし、言語的な振り返りは特にしていない。たぶん、一度経験したことを身体的な記憶にしているのだと思う。だから究極の経験主義なのかもしれない。

経験していないことを身体化することはできるのだろうか?想像することで経験に近い状態まで到達することができれば可能なのかもしれないが、それもあくまでそれを想像した・考えた自分の身体についての経験だ。

こういう身体は規範の反復に対して非常に脆弱だと思う。経験が自然と規範を吸収する方向に動いてしまうから。私は別に能動的に何かを記憶しようとはしていない。ただ水が流れるときに必ず上から下に、決められた道を通っていくように、同じプロセスを反復していく。

ただ水のように流れていくのであれば、相互的な作用があるはずで、水の流れが川を侵食していくように、規範の側も削れていくのではないか?

わたしの身体はすごく保守的と言われたことがある。拡張を拒んでいる。ただ、実際には反復によって徐々に自分の身体は変わっていっている。それに無自覚なのかもしれない。それなら、自分が望むものに対して拡張していく、そのリスクを取る方が結果としてよいのかもしれない。