おげげ結婚

さいきんよく結婚ってなんなんだよって思う。

先週からme and youのpodcastのテーマが婚姻制度になって、実際に最近事実婚をされたharu.さんがいろいろとその経験について語っていた。パートナーとの関係や自分のステータスに名前をつけることの難しさ、すごくわかるなと思った。

ちょうど同じ頃、パートナーが無理やり?知り合いに結婚について語らされて、私に暴露されるという事件があって、すごく悲しかった。わたしたちがずっと大事にしてきたものを簡単な言葉で壊そうとしないで。

その知り合いはtoxic masculinityを体現したみたいな人で、きっとその人なりのくるしみもあるんだろうなとぼんやり思いつつ、怒りを感じた。わたしたちはまだこの関係にうまい言葉も何も持てていないのに、すごく言葉を大事にしているひとなのに、それを無理やり解釈されて勝手に伝えられることの強烈な暴力性よ。

昨日読んでいたエッセイで、自分の結婚に関するスタンスに近い、すごくしっくりきた文があった。

I liked my body well enough. What I didn't like was what I thought it signified: that I was tied to my 'nature', to my animal body - to the whole simian realm of instinct - and far more elementally so than, say, my brothers. I had 'cycles'. They did not. I was to pay attention to 'clocks'. They needn't. There were special words for me, lurking on the horizon, prepackaged to mark the possible future stage of my existence. I might become a spinster. I might become a crone. I might be a babe or a MILF or 'childless'.  - Zadie Smiths, "Peonies", Intimations: six essays

そうそう、結婚っていうのはまさにこのspecial wordsなのだよね。私には兄弟はいないので、家族の中で感じる差異というのはわからないけれど、何かそのことばが、女性ということと絡み合って、どんな選択をしようとも、わたしを一定の檻の中に閉じ込めようとしてくるように思えるのだ。

今は「若い女」という記号に良くも悪くも慣れているし、好きなところもあるけど、それこそ、将来またべつの記号を付与されたとき、まだ「妻」や「母」のほうがよっぽどよかった、とか思い始めるのかもしれないとちょっとでも想像すると、最悪すぎる。

それから、自分の中に「結婚」に付随するばかげた幻想がずっと残っているのも感じる。結婚すれば一生の愛を誓えるのね、みたいなことを、頭ではそんなのありえんと思っているがどこかで信じている。お見合い結婚をしたおばあちゃんが「初めて会ったとき、ああ、わたしこの人と結婚するのね、とすんなり思った」と語っていたようなことがずっと残っている。こういうおとぎ話に夢見てしまう自分を端によけつつ、現実にある自分たちの関係、それをいかに規範のコンベアに乗らずに作っていくか。でも、コンベアに乗ることのものすごい快楽よ!

9月の舞台で、家族を大事にみたいなメッセージが伝わってしまってないかすごい不安だった。でも、あのときはおじいちゃんが亡くなって、改めて家族で集まって、孫とはいえ、おとなになった自分に課された役割を改めて感じて。素直に考えたらあれが出てきてしまったんだよ。まあでも、血縁のない人と家族を築いてきたという意味では血をつないでいくためではない、より個人的な関係性や記憶の話をできていたと思う。批評だと「命をつないでいく」みたいな書かれ方をしててゥとなったけど。それは受け手の問題でもあるからあまり気にしすぎず。