図書館のコーヒー、襞、pronouns

イギリスに着いて2週間が経った。まだ目覚めたとき、ここはどこだろう、と思う。夢では家族とパッキングしていたり、飛行機に乗り遅れそうになったり、恋人と海で泳いでいて溺れそうになったり(今年の夏ほんとにあったこと)している。私はまだ阿佐ヶ谷にいて、ちょっと旅行に来ているだけみたいな感覚。

同時に、2年前にワープしてきたような感覚もある。ちょうど2020年の3月に、イギリスを離れて日本の生活に戻ったけれど、その間に失っていたいろんな習慣や言い回しが少しずつ戻ってきているのを感じる。たとえば目があったときのほほえみとか、バスの乗り方、パプでの注文、図書館のコーヒーとか、sainsbury'sで必ず買うものとか。でもこの2年で変化してしまった習慣や新しい感覚と時たま衝突してしまうこともある。去年からハンドドリップのコーヒーを家で飲むようになったから、もう図書館のコーヒーは美味しく飲めない。あれだけ高いと文句を言ってたランドリーも、近所のコインランドリーに比べたら安いわね(洗濯機を買いなさい)。2年前の私と、いまの私を一緒のように扱っていると、どこかズレが生じてくる。

隔離中、三浦哲哉さんの『LAフード・ダイアリー』を読んでいた。『食べたくなる本』をちょうど出国直前に読んでいて、その著者とは知らずkindleで買っていたのでその偶然に驚いた。東京からロンドンに来てLAの話を読んでるというのはなんだか可笑しかったが、面白くて一気に読んでしまった。

その本の最後の章で、「襞」という比喩が出てくる。身体の記憶は、一本の長い帯のようなもので、異なる場所や時間の記憶が刻まれている。何かを味わうとき、私達はその記憶の帯を折りたたんで現在と重ね、その「差異」によって味を感じている。むしろ、その「差異」こそが味なのだ、と言う。

この「襞」の比喩は、味にとどまらずあらゆる経験において言えることだと思う。私がいままさに経験している暮らしの習慣のズレやちぐはぐさは、そのまま生活の「味」につながってくる。新しい記憶が刻まれた帯をもって再びロンドンでの暮らしを経験する。それは以前とはまた違った、より深い味わいをもっているのだろうと、嬉しい予感がした。

 


 

今日はクラスの始まりの日でもあった。前留学していたときも同じようなセミナーがあったけど、プログラムに属しているというだけで精神的な安定感が違った。それから、先生のポリシーによるものなのかもしれないが、pronounsをちゃんと尊重しようということがクラスのルールとして提示されていたことに驚いた。自己紹介でもpronounsを言ってね(もちろん強制ではないが)と言われて、これは2年前にはなかったなあと。たまたまかもしれないけど。あわててinstagramのプロフィールにshe/herを追加した。

ただ、同時に15人の人と知り合って、セミナーには他のコースから授業を取りに来ている人もいるこの状況で、なんとなく会話をするときなどにどうやってpronounsを確認すればいいのかな、と思う。あと、自分が読んでいる文献の著者をhe/sheなどと指すことがあるけど、その人がほんとにその呼称で良いのかどうか(確認するすべがないこともあるけど)迷ってしまうから、できるだけ使わないようにしたいと思った。pronounsがあるからこそ、その人の名前をよく覚えていないのに「彼は〜彼女は〜」といえてしまう場面もある。相手の名前をしっかり覚えてそれをしっかり言えるようにしたいなという気持ち。

名前の読みとか、その人の第一言語とかも同様。馴染みのない言語の名前を持っている人に何度も聞き返すことにはすごく抵抗感がある(でもそうしないと永遠に名前がわからないのだが)。それから、ここ数日中国語を話す人から急に中国語で話しかけられなんもわからんよ、という場面が何度かあった。その人のアイデンティティや、何に帰属しているのかという感覚を、外から勝手に決めつけることなく、でもスムーズにコミュニケーションをとるというのは難しいのだろうか。正直に尋ねるのが一番よいのかもしれないな、とsex education season3を完走したいま思う。