ことし読んだ本ふりかえり

年末そこそこ時間があったはずが、大掃除やらしていたら一息つく間もなく終わってしまいそう...せめて今年のふりかえりくらいしたいなと思ったので読んでよかった本のふりかえり。今実家にいて手元に本がないので、うろ覚えだけど。

1. ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)- 関口涼子

ツイートもしたけれど、イギリスから帰国直後、戦中戦後の精神性にすごく興味がありシベリア抑留の本を読んだりベルリン終戦日記という匿名の女性の日記を読んだりしていたのだが、全然ちがう文脈で手に取ったはずのこの本もまた戦後に関わる話だった。関口さんは以前カタストロフ前夜という本を読んだことがあった。それは震災をフランスから経験することについての話だったが、今回の本は、過去のカタストロフを振り返っていたつもりが実は新たなカタストロフの前夜にいた、という話で、特にシベリア抑留や終戦日記とも重なる部分が大きかった。特に終戦というのは大きなカタストロフの終わりのように思っていたけれど、それは捕虜にとっては新たな苦しみの始まりでしかなく、占領下の市民、特に女性にとっては、略奪・性暴力の始まりでしかなかった。ベイルートの人たちにとっては、戦後にいたつもりが革命前夜におり、さらに経済危機の前夜にいた。歴史を一つの区切りの中で見るのではなく、一人一人の人生というミクロなタイムラインでみながら、かつ料理という、世代を超えて記憶が蓄積される媒体を通じてより歴史の区切りとは異なるマクロな時間軸からある土地にいる人々の生き様を見る、という感じの本(だった気がする)で、書かれた内容というよりも、その時読んでいた他の本とも合わさって、新しい視点を与えてもらった読書体験だった。

2. Whereabouts - Jhumpa Lahiri

日本語訳名は『わたしのいるところ』。昔日本語で読んだことがあったけど、再度英語で。たしかこの本は彼女の第二言語であるイタリア語で元々書かれていて、self-translateされたものだったと思う。あくまで小説ということになっているが、エッセイのように読める作品。ローマで1人で暮らす女性の話。母親との関係に苦しんでいて、既婚の友人との関係性に悩んだり、過去の関係について思いを馳せたり、と思えば街角の人々に目を向けたり。主人公の持っている嫌さがどうも自分と重なる気がして、苦しくなるくらいリアルだった。例えば、友人夫婦を家に招くがその夫がどうしても好きになれず、彼が不注意でソファーに残していったボールペンの跡を見るたび憎しみが湧くので隠し込んでしまう。どうしても譲れない一線を越えてきた相手のことは、憎むところまでいってしまうというそのメンタリティは自分と似ていて、ああわたしってこういう嫌なやつなんだよな、でもこの自分と一生一緒に生きていかないといけないんだよな、という感覚になった。母親との関係もいわゆる毒親(これって英語で似た言葉あるんかな)で、でも関係を切り切れない曖昧さがある。この本は満たされていない時に読んだ方がいい。満たされているときに読むと不安になるが、満たされていないときに読むと安心できる。これはEdinburghからの帰りの電車で読んでいて、行きの電車とは違って暗くて、苦手なタイプの白人男性の集団が隣に座っていてすごく不安になっていたときに読んでいたので、守られている気分になった。

3. No. 91/92: Notes on a Parisian Commute - Lauren Elkin

大学教員である著者が通勤のバスの中でiPhoneで書いた日記。最初はバスで起こるちょっとしたできごとや、Manspreading(男性が足を広げて座席の幅を取ること)を自分も鞄を少し座席からはみ出すことでやっている、とか、パリで女・移民(著者はアメリカ出身だった気がする)として移動することについてかなり臨場感・リズム感のあることばで書かれる。後半は、著者が妊娠して、そして流産してしまうというイベントから、移動すること、そして著者の視点自体が変化していくというのがわかっていく。そして最後の章は、シャルリーエブドの事件以後の通勤で、著者は確か引っ越してもうバスには乗らず地下鉄に乗っている。全体に漂っている緊張感が排外的な視点と結びついてしまう、ということについて書いている。著者自身、マイノリティであり、ある種マジョリティであるという二重の状態にいて、その複雑さの中で生きる人の視点がそのまま出ているな、という感じの本だった。

4. 富士日記 - 武田百合子

大好き富士日記!とにかく日常のことが淡々と綴られていく。ご飯の描写も多いが、必ずしも美味しそうなご飯というわけでもない。でもなんか食べたくなる。さくらご飯(実はただのねこまんま)とか、バターうどん(作り方不明)とか、自家製クッキー(まずいと書かれていることが何度かあった気がする、ビーフシチューなどと合わせて食べる)とか。

いろんな人々が生き生きと登場しているが、その中に死の空気がずっと流れている。最初は死は少し遠いところにある。交通事故で人が死んだり(箱根で家族の記念撮影をしようと後ずさった人がお尻を轢かれて死亡、とか)、文筆家や出版関係者が亡くなって電報を送ったり葬式に出たり、でも最も身近な人は元気にしている。

中盤になって犬が亡くなる。そして最後には夫が病に倒れる。そのときに支えてくれるのは淡々と続く日常と周りの人たち。武田百合子は結構身近な人にも一見愛がない発言をすることがある(犬が癌になって入院している時「チョロチョロするのがなくて仕事がしやすい」とか言っている)けど、行動からは愛がにじむ時がある。特に、身内だから、といって贔屓するのではなく、万人にも何か等しく気持ちを配っているというような印象がある。いわゆるノブレスオブリージュ的な態度なのかもしれないけれど、怒るときには怒る、温かく迎えるときは迎える、それは相手の立場や関係性とはあまり関係ない、というのがいい。感情がさっぱりとしていて、それもいい。夫婦喧嘩の末、このまま死んでやると山を車で爆走するシーンは面白すぎる。武田百合子のロシア紀行も今読んでいるけど、それもおもしろい。

5. 母親になって後悔してる

これは話題になったので読んだ人も多そう。ちょうど恋人が「子供は2人くらいほしいな」とか言っていて頭が真っ白になったので手に取った本。救われようとして読んだけれど、救われたのかは正直わからない。これを読んで、わたしは多分子供が欲しくないな、というところまで気持ちを整理できた。この本では、社会からくる苦しさ以外にも「本質的な苦しみ」(どういうことばで言われていたかわからないけど)のような感じで子供を持つことを表現している人もいた。でも読み終えた印象としては、結構社会からくる苦しみが大半を占めていないか?ということだった。そしてそれはものすごくdepressingな事実だなと思った。それから、母になって後悔してるというのは、子供を愛していないということではないという話も多く語られていたが、それはなおさら苦しい事実だなと思ってしまった。自分の子供は愛せるのかもしれない。でも子供を持つこと、母になることに付随するあらゆることを憎んでいる。それはすごく歪んでいるし、その歪みが何か子供にも継承されるような気がする。救いにはならなかったと書いたが、母親になることの複雑な苦しさがこんなふうに明文化されたのは非常に大きな貢献だと思う。すでに母親になっている人の方が救われるタイプの本ではないか。

 

以上、まだまだ書けるものはありそうだけど思い出せるものはこんな感じ。
来年は社会人になるのでもう少し何も考えずに本を買えるようになりたいな。今回はまだ入れていないけど11月くらいから歌集も読んでいるので、さらに色々読み進めていきたい。

良いお年を!

トランスマーチにいったよ

トランスマーチにいってきたよ〜

私は近ごろのトランス差別的な言論の高まりに怒っていたし、周りにもそもそも無関心な人が多いなあと思っていたので、反差別の文脈で参加した。デモで中に入って歩くのは初めてだったので、人を誘っていったけど、同じ大学の人たちやそのつながりのひとがたくさんいてワーよかったとなる。マーチ始まる前のブースで仕事で関わったことのあるひと(メールだけ)とお話できて、あ、私のやってたことって社会とほんとうにつながってたんだな、と思う。あのときはフルリモートで、家から一歩も出ずに、顔も声も見聞きすることができない相手からお金をもらって仕事して、何をしてるかわからなくなることも多かったから。

マーチに出て思ったこと。

デモを応援したいときに沿道で何をしたら良さそうかがわかった。沿道から写真を取られるのは私はあまりうれしくなかった。もしここにいることがうっかりわかってしまったら不都合に感じる人がいるんじゃないかと考えてしまうから。だから基本は手を振ったりというのがいいんじゃないかな。まあ今回はマーチだからというのもあるかもだけど。もう少し堅めのデモだったらどうしたらよいのだろう。人が沿道から応援してくれてるのをみると、連帯をじんわり感じた。

同時にシュプレヒコールはすごく違和感を感じる行為だった。少なくとも私には言えないことがあった。反対表明としての沈黙ではないのだが、どうしても口から出てこないことがあって。それはそもそももっとこういう話だよね、というものもあったり、自分が知識不足でスタンスを明確に持てていないものであったり、あとは単純に言葉遣いの問題であったりした。「わたしたち」という言葉にはものすごく警戒してしまって口に出せなかった。それでも勝手に口から出そうになるときがあって怖かった。自発的に発した言葉であってほしいのに。少なくともコールが始まる前に何を言うことになるかは確認しておくべきだったし(その手段があったかどうかは不明)、知らせておくべきとも思った。少なくとも発声するということは立場の表明もしくは代弁であり、何を代弁してるのかをよく知らずにすることはできない。もちろんその時の認識が間違っていてもいいからサポートの気持ちを表明しろよ、と思う人もいるだろうが、私にとってそれはむずかしい。

でも土曜日の新宿の街の中でデモの列は明らかに異物で、それを堂々と立ってやるというだけで良かった。特にバスタの前で反差別を表明して立てたのは印象深い。差別の記憶が色々染み付いてるエリアだと思うから新宿は。あらゆる差別に不安や危険を感じている人が安心してくれたらいいなと思って歩いていた。

 

2022/10/13

朝のルーティンが決まってきていい感じ。まず起きてお湯を沸かして洗面類をする。お湯はお茶漬けとコーヒーの分多めに。お茶漬けの米を温めておいてる間にコーヒーの豆を測って挽いておく。そうするとお湯が湧くのでお茶漬けにかけて冷ましておく。コーヒーを3分くらいで淹れる。コーヒーちょっと飲んだらお茶漬けが冷めて米が出汁をちょっと吸ってくるのでたべる。

でもこのルーティンは今のこの気温だから成り立つ気もする。もっと寒くなったら身動きが取れなくなっちゃう。

久々に高山なおみさんの本を読んでる。やっぱりいいなあ。ご飯で一日が締まってる感じもいい。仕事してるときにちょっとセクシーな気分を感じてるのもかっこいい。日々ごはんを何冊まで読んだかわかんなくなっちゃったので比較的最近の日記を借りたら娘がすごいおとなになっててびっくりした。なんなら今は20年後とかだから、実は自分の親と変わらないくらいの世代だったんだろうか。日々ごはんでは私よりちょっとお姉さんくらいだったのにな。20年前の日記だけどいきいきした文章だから、それを読んでいる今の私の生活が影響される。時空の旅。

何も確認せずに手にとったら2011年の日記で、非日常の中で生きていく日常とか、またカタストロフの話だなって思って読んでいる。通勤のときのためにエッセイ本を買うようにしたんだけど、今読んでるのは戦争中のベオグラードの日記。震災の2・3週間後くらいにお店に行ったらWe are the worldが流れていた、というエピソードを見てひさびさに聴いてみたけど、weって誰だよって。もう全く響かない詩だな。歌はいいと思うし、一緒に歌うとなんかいい気分になるんだけど、いい気分になっちゃだめだよなって思って。

修論についての所感(なぐりがき)

修論について色々振り返る。前に書いた卒論の振り返り見て色々変わったことと変わらないことがあっておもしろ〜となる。結局分量としてはもう一回英語で卒論を書いてみた、みたいな感じになったので、修論と呼ぶにはチャレンジングではなかったのだけど、同じようなプロセスを違う環境・内容でやり直すのはまた発見があって振り返ってみると興味深い。

シンプルに英語で書くということで助けになったものたち。

わたしはDeepLは使わないというのを信条にしていたので読むときは基本speechify(読み上げアプリ)で聞きながらiPadでラインを引いていく。読み終わったら書き込みを含めてPDF化してPCに送って、まとめ作業をやる。Citationはツールを使うべきだったんだろうけど、どうもしっくりくるアプリに出会えなくて最終的に全部自分の目でチェックする羽目になった。

インタビューの文字起こしは、英語はotter.aiでかなりきれいに取れます。日本語ツールは最初nottaを使っていたけど、結局LINE clovaが一番正確だった。ただβ版で課金できず、編集機能が色々未開発なので、文字起こしはテキストをダウンロードして岸さんのinterview writerで(操作慣れてるし)。LINE clovaはデータ提供すればデータ量が上がるんだけどそれは研究倫理的にはグレーだと思うので気をつけて。直接スマホアプリのLINE clova上で録音すればデータ上限なかったはず。

文章書くのは、Academic Phrasebankがかなり参考になった。あとは大学からESLの学生用のdissertation writing guideが細かく出ていたのでそれを読みながら書いていた。

https://www.phrasebank.manchester.ac.uk/

その他英語についてはもう指導教官に頼り切りで...フィードバックのときに英語の表現も全部見てくれた。本人も英語が母語ではないのでかつて苦労したのだろうか。感謝。

 

もともとは都市と文化にからめて何かを書こうと思っていたのだが、ダンサーへインタビューをするという論文になった。結果自分の関心のあるところに真正面から取り組んだことになってよかった。もともと文化産業論ってところも、なんで役者やダンサーとして生きていくのがこんなに苦しく難しいのかということで。その苦しさは経済的なものだけでは語れない、ジェンダーとか身体のことも含んでいたから、大きな産業の仕組みとか都市のこととかやってもそこには触れられないなあと思っていた。

そこでprecarityという研究領域に出会ってしっくり来た。precarityは学問領域と労働運動両者の側面を持っているので、基本的にはtemporary workerやfreelancerの仕事・生活の不安定さについて広く扱っている分野。ただprecariousnessというちょっと別の概念だと人類が共通して持っている生の不安定さ、みたいな話にもなり、ある身体を持つこと・見せることを扱うのにもかなり向いている概念だと思った。意外にもダンサーの身体とその不安定さを絡めて論じている研究はすごく少ない。precarityはヨーロッパ中心の研究分野というのもあってその域を出ていない。ダンサーの身体ってすごいいろんな意味でこんがらがっていて、本人の認識もかなりこんがらがっているので、面白いと思うんだけど。日本語でこれについて書くのすごい難しい。

今回もインタビュー、かなり迷いながらやっていて、失敗したなと思うこともあった。あまり時間がなくて、アポとったら2日後できます?みたいな感じでぬるっと始まってしまったので。informantとの距離の置き方とか、踏み込み方とか、話の脱線とか。難しかった。印象的だったのがあるinformantがすごく研究に興味を持ってくれていて、何が原動力なんですか?なんで私の話をこんな聞いてくれるんですか?みたいな質問をされた。(その時もう正式なインタビューは終わってて、雑談してた。)そのとき素直に出てきたのは自分に興味があるからですかね。ってことだった。

私は人に別に興味があるわけじゃないんだよね。こんなことインフォーマントに言うなよって感じだったんだけど、その人はすごい面白がってくれて。私も、いや興味がないわけじゃないんですけど。でもその人を助けたいとかそういうことではなくて。自分の知りたさとかケリを付けるとかそういうことのためにやってるんですよね多分。なんで自分はこうなのか。自分はこうなのにあの人はこうなのかっていうのを少しでもわかりたいんですよね。感情的に同情しているというよりはエンパシーというか。別にその人が苦しいとか大変だったという話を聞いても心に何かが到達することはないんだよね。それはインタビューだろうが日常生活だろうが同じで、それは起こってしまったことで、それは自分に起こったことではないから。

これを言ったわけではないけど。流石にその日初めて会ったinformantにこんなこと全部言えないから。でも今思うとこんな気持ち。

モド・ウゴ・キリ

昨日ひさびさに稽古場に戻った。稽古場と呼べるほど長くは通っていないが。知ってる人がいっぱいいておかえり〜って言ってくれた。昨年のあの不気味な雰囲気はなんだったのか。その時一緒にはじめた人たちはもう誰も残っていなかった。

稽古のシークエンスも少しずつ変わっていて、動きのイメージが新鮮に感じられた。手が溶けていく感覚とか初めて感じてオーとなった。去年はそのイメージと言語のずれですごい苦しかったけど、一旦それを手放して素直に動けたのでなんだか楽だった。イメージを使って踊るというのはロンドンではあまりやっている人がいなかったかもとかちょっと思う。理論を詳しく読んだわけではないのでわからないけど。結構メカニックな身体を信じている人は多いなあと思った。無意識の中の動きみたいな。それって結局実践しようとすると心身二元論に陥ってしまいがちな気がするのだけど。稽古場ではテクニックについては距離をおいて語られるので、それはありがたかった。

陶酔状態に入ること、それを人に見られることがあまりこわくなくなっていた。公園で即興やるのに慣れたからそれに比べればって感じなのかもしれない。Mayfairの路上でも踊ったしね。客観的に見たらみんな自分に陶酔しててちょっと怖い感じもあるくらいだったから。振付があれば完璧に陶酔しきることもないし、陶酔側に踏み込むことに抵抗が減ってきてるのはすごくいいこと。

髪を切ってちょっと野性的になったんじゃないと言われる。そのときはふ〜んと思っていたけどなるほどしっくりくる。1年間地続きだった生活を手放して周縁の中で生きていたことが何かを変えただけかもしれないけど、東京の街に降り立ってすぐに髪を切ったことでもうもとの自分には戻らないという宣言したような感じ。髪を括った自分を見るのが最近かなり嫌だった。縛っていた毛束を誰かに掴まれてるみたい。髪を切って従順な女みたいに見られている自分を全部捨ててきた感じがある。まだ新しい社会に順応中だからっていうのもあると思うけど、髪がこの気持ちを思い出させてくれそうで。

07/07/2022

七夕ってことをTwitterで知った。来週頭にはFeedback貰いたくて慌ててdraftを指導教官に送る。まだ必要そうな文献を読みきれてないんだけどとにかく書き始めないとやばいので読みつつ書いては送っている。Precarityの議論、まだbutlerのprecariousnessの部分が理解しきれていなく、でもmigrant workerの生きづらさみたいな部分と関連していると思うし、movementとしてのprecarityとも関連していると思うので、ちゃんと詰め切りたい。お昼は友人と通話してパリの計画を立てる。やっと行けるのね。お互いのマップを共有しあったらほとんど食べ物だったので最高のbuddyだねってなった。夜はバイト。大量のtakeaway、団体客とクソ客、VIPの来訪がすべて重なって激忙しい。社長のねぎらいでみんなドリンクをおごってもらった。耐えきれず帰りにマック買って帰った。

08/07/2022

朝、LINEの通知がいつもに比べて多いのではて?と思ってみてみると、銃撃事件についての家族からのLINEだった。「日本でこんなことがおきるなんて」と書いていて浅沼稲次郎の暗殺や最近の銃乱射事件について考えた。色々見て考えれば考えるほど頭から血の気が引くような気持ちになって家を飛び出した。少しバスに乗ってジェラートを食べてクールダウンした。カフェで作業して帰宅。Twitter見てたら今日の夜中3時に、昨日ちょうど行ったマックの前あたりで人が刺されていたことを知った。帰りバスで通ったけれど何も気が付かなかったし、特に寮のWhatsappとかでも話題になっていなかった。また衝撃的な写真を見てしまい、なんだこれ?って気持ちになった。

I'm a dancer, privately

最近これからどうやって踊っていこうかなというのをずっと考えている。

3月に新しいダンスのコミュニティを見つけ、今までで一番心地よく踊りに関われている。Lauraというアーティストが中心になり、Lewishamあたりで活動しているグループがある。毎週水曜日の朝にはコミュニティセンターのスタジオを借りて、個々がそれぞれ好きに踊ったり、動きを探求したりする場を開いている。それから隔週で、公園に集まって各自ヘッドフォンをつけ、audio guideということばと音楽の入った音源を聞きながら踊るイベントがある。Contact Improvisationのコミュニティよりもさらにテクニックや既存のダンスに関する規範的なものから遠いところにある感じがして心地よく感じている。

それでも踊りを探求してるとテクニック欲しいな〜って思う場面がある。特に私はフロアワークが大の苦手なので、もう少ししっかり探求したい。それに、人に見せる踊りをするというのは特別なことで、こわいことだけど、見られることで生まれるものもあると思う。でも、見せること、という気概でやってしまうと、身体が固くなって心が閉じてしまう。

先週には地域コミュニティの人に対してワークショップをひらくというのでお手伝いをしてきた。その中で出会った人が、"I'm a dancer, but privately"と言っていて、それはすごく豊かなことだなと感じた。Publicじゃないとdancerではないみたいな気持ちがずっとあったけれど、別にprivateにダンサーであってもいい。自分だけのための踊りや、家族や友人、恋人との踊り、近所の公園と犬たちとの踊りでもいいのかもしれない。そういう場所が日本につくれるのかな。

そもそも前提としてwell-beingのために踊っていたいし、well-beingを妨げるような踊りはしたくない。踊りというのはつながることだけど、繋がりたくないものとはつながらないという選択肢も取ってもいいのかもしれない。でもわたしの場合、自分を開くことが相当苦手なので、そこからはじめていくべきだし、少しは勇気をもって踏み出そうと思って開こうとしている。でも日本でそれをやってみたら嫌なものと結構つながってしまった気がして、ああ、場所が悪かったんだなと思った。そう思うと、もう少しここにいたいなあという気もしてくる。