野菊

職場で大きめな組織改編があり、今まで生きやすいと思っていたのがたまたま環境によって支えられていたものだったと気づく。集団の中は基本的に息苦しく、どう頑張ってもはみ出てしまうのだということ、過去数年それをあまり感じずすんだのは自分が変わったのではなく、環境がよかったのだということ、頭では知っているつもりだったが改めて感じた。

基本的に権力者は嫌いで、権力者に媚びるやつはもっと嫌いだが、権力を正しく使える人を見抜くこと/自分が一定の力を持つこと(持てるなら)もまた大事だと思った。集団において権力構造がないことはなく、権力をもっていないのに使えない人もそれはそれでやばい。権力を持っているのを知っていて、使えないのもやばいし、気づいていないパターンはもっとやばい。特権についても同じことが言えるのかも。人間関係も。自分を支えられる力があるひとは優しく見える。でもその力の方向性を間違えるとたいへん。

メタ認知ってどうやって生まれるのか、ってさいきん複数の人と話した。同じような経験をしていてもメタ認知が比較的少ない人もいるし、メタ認知があるからといって適切な振る舞いができるわけでもなく不思議だなと。ずれていることを認識できることと、それを調整できるかどうかはまた別だし、ずれていることで起こる摩擦を感じることとずれていることの根本を理解することもまた別なのだなあ。

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お母さんの命日だな。2009年に亡くなったから、もう15年になるんだ。どっかでお母さんの年齢を超えちゃうときがあるからね。それを思うとわけわかんない。大学生のときってもっとどんな人だったか知りたい欲求があった気がする。それがまるで自分を知ることと同じって感じがしてて。でも最近は少しその欲求が減ったな。今の自分の構成要素の中で、母の色がうすくなってきてしまってるからかも。たぶん実家のどこかに母の日記が残っているはずで、子どものときは、あなたが読むにはつらすぎる(闘病のことがすごく書いてあって、生々しいから)と言われて読ませてもらえなかった。確かに少し盗み見たときは、青いボールペンの字がミミズのようにグネグネしてて、苦しい、といったことがすごくたくさん書いてあって怖くて読めなかった記憶がある。今は読んでみたいけど、母は読んでほしくないだろうなって思うから、読んでいいのかわからない。

仏壇に手を合わせることとか、お墓参りに行くことが、高校生くらいまですごく辛くて、できればやりたくなかった。お葬式から、法事まで、母の死に関するあらゆるセレモニーが一回も自分の支えになってくれたことがなくて、嘘くさくて、なんかみんなわかったような顔して祈ってて、ばかばかしかった。今でも別にばかばかしいとは思ってるけど、というかそれが儀式の本質だと思うから行為自体はばかばかしくてよいのだけれど、何も思わずお墓参りに行ったり、仏壇に挨拶したりできるようになった。

私はどこかで母の死を乗り越えたのかな、ずいぶんかかった。母の死、というか、それ自体というよりは、自分は幼いころに愛情を受けなかったということだったり、周囲に馴染めなかったりしたことをすべてそのイベントに転嫁していたのだなと思う。それが、大学生活や留学、恋愛などで、いろいろな人と一から関係を築けることを学んで、自分自身に自信がついたのかな。長らく会えていなかった母方のおばあちゃんにもなんとか会えて。カウンセリングでも、母が死んだこと自体がトラウマなのではなく、大きなショックを受けている自分に誰も気づいてくれず、「気丈な子」として扱われたことがトラウマだった、ということがわかった。今では、自分は大丈夫、という基本的な自尊心があり、親にも一定親孝行するくらいにはなっただろう(気が早いかもだが)、という自覚もあるので、辛い気持ちがなくなったのかな。一瞬隠れているだけで、また自分がどん底にいったときに顔を出してくるものなのかもしれないけど。

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「子どものときは」とか「おとなになってから」って最近普通に使うようになってしまったのだけど、発した瞬間ものすごい違和感に襲われる。自分はずっと子どものままだし、どんどん子どもに近づいているまであるから。自分の子どもができるまで子どものままなのかなって思うけど、子ども欲しいとは思わないから、一生おとなになれないのかもしれない。周りで子どもつくるひとも出てきて、その間に私はぬいぐるみを一ヶ月に6-7個買って、グアバ犬とバナナ犬(台湾のスーパーのゆるキャラ)が革命組織作って、バナナ犬がさきに逮捕される人形劇とかやったりしてた。小学校のときとかってみんなこどもだったのに、25歳の一瞬を切り取るとこどもとおとなに分けられるようになってるの、すごい変だなって思っちゃった。みんないっしょに「のぎく」踊ってたじゃん!(小学校で5-6年生女子だけが運動会で踊らされるなぞの踊り。強制ではないので拒否していたが、学年で2人くらいしか拒否してなかった。いま調べたらのぎくは尋常小学校唱歌だった)