江國香織と母

母の形見はほとんど捨ててしまったが、彼女の所有していた本が唯一私の手元に残っている。エッセイや漫画などが主だが、江國香織の小説だけは何冊か揃っていた。小さい頃はファンタジーやミステリーばかりを読んでいたので目もくれなかったが、最近よく読むようになった。

彼女の記憶はどんどん薄れてきていて、元気なときの彼女の姿はもうほとんど思い出せない。父が再婚してからは、新しい母親との生活が当たり前になり、彼女と暮らした記憶は夢のように思える。しかし、彼女ののこした本を読んでいると、わたしはちゃんと同じ時間軸の上に存在していて、彼女からもらった血によって生きていることがわかる。

彼女の本の中でわたしが初めて手に取った江國香織の本は『きらきらひかる』。発行年は、平成十六年とある。本屋で一、二年眠っていた可能性もあるが、だいたいそのあたりに購入したのだろう。そしてこの話の続編は『ぬるい眠り』という短編集の中に収められている。この本の初版は平成十九年に発行されているから、彼女が知ることはなかったはずだ。きっと知っていたら読みたがったと思う。彼女が決して読むことのできなかった物語を読むのは、とても冒険的なことだった。

『神様のボート』という作品は、母と娘の両方の視点から描かれている。過去の恋にしがみつく母と現実的な娘。やがて娘は小学生から中学生になり、母の手を離れていく。きっと、彼女はこの本を読んで、幼い私が成長していく将来のことを考えただろう。わたしが中学生になったら、高校生になったら、どうなるだろうかと。それを大学生のわたしが読んでいる。わたしは彼女が想像したような女の子に成長できただろうか。

江國さんの小説には、日常の、普通ならはっきり記憶されることのない余白のような時間がしっかりと描写されている。だから読んでいると、友達のこと・恋人のこと・家族のことが思い起こされる。

彼女は、この一文から何を連想しただろうか、と考えることがある。もしかしたら、父ではない男性との記憶を思い出したかもしれない。わたしのことを考えてくれたことはあるだろうか。彼女がどういう考え方をしていたのか、わたしは何も知らない。でも、わたしが共感できる一文に、彼女もまた共感したのではないか、と根拠のない実感が湧いてくる。

わたしが彼女のことをもっとも近く感じられる瞬間は、彼女の写真を見るときよりも、「おかあさんに似てきたね」と言われるときよりも、彼女の残した江國香織の本を読んでいるときなのだ。