冬のロンドン、どんより生活

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こんなに暗く長い冬は初めて。

心も身体も重くなり、なかなか部屋から出られない。内にこもっていると、思考がどんどん深くなっていく。どんなインプットをしても、内省的な思考が強すぎて、最終的には同じような考えに耽って時間を溶かしてしまう。
気休めにビタミンDのサプリを買ってみた。黄金に輝くカプセル。たらの油がメインなので、噛み砕いたらめちゃめちゃ不味そうだけど、なんだか魔法の薬みたい。
ぼーっとした生活の中で、なんとかできていることは料理と踊りだけ。どちらも自分を知るプロセスだから、冬の心のリズムに合っているような気がする。

部屋で過ごす時間が増えてから、純ココアからホットチョコレートをつくるようになった。スプーンいっぱいのココアパウダーを鍋で1〜2分煎る。その間に牛乳をレンジで温めておく。砂糖をちょびっとだけ加えてから牛乳を注ぐ。ダマにならないよう、泡立て器でやさしく混ぜる。沸騰させないように注意する。最後にはちみつと塩で味を整えたらできあがり。市販のココアの粉なら、1,2分あれば作れるところを5分くらいかけている。でも、このちょっとした手間が心を満たしてくれる。手間がかかっているから、冷めない程度にすばやく、だいじにだいじに飲む。市販の粉で作ったココアだと、何をどれくらい摂取しているのかわからないが、自分でつくれば、砂糖や蜂蜜をどのくらい入れたかしっかりわかる。何をつくっているのか、何を身体に入れているのかわかる安心さ。

"You are what you eat" – 食べ物は身体の組織をつくるのと同時に、その身体に文化や思想を刻み込んでいく。何を食べるか、どう食べるか、その一つ一つの選択の積み重ねが、わたしを形作っている。基本的に食欲に正直に生きているので、その時食べたいものを食べたいだけつくる。ただ食べたものはすぐに身体に反映されるので、偏ったレシピばかり食べていると、口内炎ができるし便秘になる。

その時はじめて、食べものを選ぶこと・つくることの時間性を思い知らされる。自分を大事にできないときは、脳の報酬系のされるがままにその場しのぎの食事を無駄に口に入れてしまう。すぐにその状態から抜け出すのは難しいけど、冷静に状況を理解できるようになったタイミングで、身体を調整するためのレシピを考えて、買い物に出かけるようにしている。料理でかんたんに自分をいたわることができるから、なんとか心身のバランスを保てているのだと思う。

 

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ホットチョコレートばかりも脂肪分のとりすぎな気がして、ティーポットを買った。

ダンスも料理と似ていて、その時々の身体の重み、やわらかさが動作に影響する。そして、踊れば踊るほど、おどるための身体にかわっていく(さぼると踊れなくなる)。特に、重力を利用して動きを生み出すコンテンポラリーダンスの場合、細かな変化がすぐにわかる。インプロビゼーション(即興)では、こころの状態も明確にわかる。気が急いていたり、うまくやろうとしたりすると、ぎこちないフローになってしまう。

舞台や大会で踊っていたときは、筋肉で無理やり形をつくり、理想の姿に合わせていた。力で無理やりしなやかさを出すことができないわけではないが、少しでも筋肉がなくなるとできなくなる。それは、何かに追われて進歩を求め続けるあまり、心も身体もすり減らしてしまう踊りだ。

ロンドンでリリースベースのレッスンに通うようになって、踊ることは必ずしも能動的な行為ではなく、むしろ受動的な行為だということに気づいた。精神、肉体の現在の状態を認め、最大限に活かし、しなやかな動きの流れをつくる。そのためには、自分の身体と感性を熟知し、信頼することが鍵になるのだと思う。まだわたしは、自分の感性のポテンシャルに懐疑的だ。すべてを預けられるようになるには、壁を超えないといけないだろう。

内にこもるのもあんまり悪くないかもしれない。適度に深みにはまらないように気をつけつつ、どんより生活を楽しみたい。

江國香織と母

母の形見はほとんど捨ててしまったが、彼女の所有していた本が唯一私の手元に残っている。エッセイや漫画などが主だが、江國香織の小説だけは何冊か揃っていた。小さい頃はファンタジーやミステリーばかりを読んでいたので目もくれなかったが、最近よく読むようになった。

彼女の記憶はどんどん薄れてきていて、元気なときの彼女の姿はもうほとんど思い出せない。父が再婚してからは、新しい母親との生活が当たり前になり、彼女と暮らした記憶は夢のように思える。しかし、彼女ののこした本を読んでいると、わたしはちゃんと同じ時間軸の上に存在していて、彼女からもらった血によって生きていることがわかる。

彼女の本の中でわたしが初めて手に取った江國香織の本は『きらきらひかる』。発行年は、平成十六年とある。本屋で一、二年眠っていた可能性もあるが、だいたいそのあたりに購入したのだろう。そしてこの話の続編は『ぬるい眠り』という短編集の中に収められている。この本の初版は平成十九年に発行されているから、彼女が知ることはなかったはずだ。きっと知っていたら読みたがったと思う。彼女が決して読むことのできなかった物語を読むのは、とても冒険的なことだった。

『神様のボート』という作品は、母と娘の両方の視点から描かれている。過去の恋にしがみつく母と現実的な娘。やがて娘は小学生から中学生になり、母の手を離れていく。きっと、彼女はこの本を読んで、幼い私が成長していく将来のことを考えただろう。わたしが中学生になったら、高校生になったら、どうなるだろうかと。それを大学生のわたしが読んでいる。わたしは彼女が想像したような女の子に成長できただろうか。

江國さんの小説には、日常の、普通ならはっきり記憶されることのない余白のような時間がしっかりと描写されている。だから読んでいると、友達のこと・恋人のこと・家族のことが思い起こされる。

彼女は、この一文から何を連想しただろうか、と考えることがある。もしかしたら、父ではない男性との記憶を思い出したかもしれない。わたしのことを考えてくれたことはあるだろうか。彼女がどういう考え方をしていたのか、わたしは何も知らない。でも、わたしが共感できる一文に、彼女もまた共感したのではないか、と根拠のない実感が湧いてくる。

わたしが彼女のことをもっとも近く感じられる瞬間は、彼女の写真を見るときよりも、「おかあさんに似てきたね」と言われるときよりも、彼女の残した江國香織の本を読んでいるときなのだ。