7月に会社を辞めてから、日記を頑張ってつけていて、8月末までつけていたのだけど、9月で急に止まってしまった。1日からいきなり大きなイベントがあって、日記に書き起こすことが難しい気持ちで書けていなかった。2週間経って、少し客観的にかけるような気もする。
1日、事実婚を解消したいということを同居人に伝えた。12月くらいまでに伝えられればいいやと思っていたのに、外でご飯を食べていて、話の流れで、伝えることが必然的になってしまい、言うことになった。明らかに、お互いがイメージしている関係性の理想像がかけ離れてしまっていること、そして、人生や家族についての考え方が真反対を向いていることが明確になったから。そのずれは既に半年以上あって、お互いそれに気づいていたのにしっかりと見つめる勇気がなく、その間に複数の決定的なことが起きてしまったという感じだった。同居人は、続ける、ということを約束することで続けて、永遠を目指すというところに美徳があるのだ、という趣旨のことを言っていた。わたしも以前このようなことを信じていた側面もあるのだが、今は全く逆で、関係性は思いが続く限り続けていけばよいことで、結果として永遠に近くなったら美しいけれど、永遠を作るために外部の力(制度・常識のようなもの)を用いる必要があるのであれば、それは続ける意味は特にないんじゃないかと思う。ここが根本的に合意できない点だった。
そのうえ、この「永遠」のなかには子どもの話も入っているように見受けられて。子どもというのは、私自身の身体の問題であり、社会的な表象の問題でもあり、どうしても譲れなかった。一般的に見ると、わたしが明らかに異常者で、わがままを言っているようにしか思われないんだろうなって思うけれど、その発想自体にfuckを突きつけたいし、そのために独自の人生をつくっていきたいと思っているから、今度またパートナーをつくるとしたら、それを一緒にやってくれるひとがいいと思った。
事実婚を決めたときのわたしは、パートナーシップとか、「結婚」というものに、自立性を投影していて、それにすがることでなにか別のものから抜け出したつもりでいたみたいだ。でも実際は、また別の檻の中に自分を入れてしまっただけだった。この話も同居人にしたけれど、全くよくわからないといった様子だった。
結局、「同居人」という関係性としてこの生活を名付け直せないか、という話をいまはしている。生活をともにするひととして、相性が良いことには変わりがないし、実際この話をしたあとも、生活は変わらず続いていって、その関係性には影響がないようにわたしは思えた。ただ、それがロマンスの名残、あるいは残りカスが見せている幻想だったら困るので、少し経過観察の時間を持ってみることにしている。
会社も辞めているのに、こんな話をしたら家がなくなるな、実家に帰る準備をしないと、などと考えていたけれど、結果として、一番体力のあるタイミングでこの話をしてよかったと思う。仕事がないし、パートナーもいないし、ってなるとすごく不安になるかもって思ってたけど、実際は、それがないこと自体が本来の自分であって、孤独とか不安をないことにして生きている状態こそがリスクだったんだと気づいた。もちろんずっとその状態でいたいかというと違うのだけど、そのむき出しの自分に向き合ったうえでキャリアとか人生の方向性を再度選び直せるのは最高だなっていまのところは思っている。